「子育て」と「働くこと」の間にあるもの。黒田三郎『小さなユリと』
僕は、妻が好きです。子供が好きです。そして、働くことが好きです。
きっと、そういうパパさんが沢山いる。
そういうママさんも沢山いる。
でも、全て好きだからこそ、悩むことがある。
そんなことを子供が生まれてからよく思うようになった。
今日は、「子育て」と「働く」の間で揺れ動く方々に黒田三郎という詩人を知って欲しくて、書きます。
子供が生まれて、初めて時間が足りなくなった。
子供が生まれる前、自分は子供好きかもしれないなと思っていた。
実際生まれてみたら、予想以上だった。
子供を抱っこしながら「あずきちゃん」のテーマソングを歌いあげ、腕の中で爆睡させることに無上の喜びを感じる自分がそこにいた。
しかし、置かれた状況は「子育て」に力を傾注することを許さない。
一人目の子が生まれたのは転職し、高校の教諭となった初任の年。
1日24時間は明らかに不足だった。
家には生まれたての我が子。
初産を終えて、慣れない土地での初めての子育てに直面し、支えが必要な妻。
しかし、学校には担任・部活・教科の膨大な業務がある。
目の前には支えが必要な生徒がいる。いくら時間をかけても足りないぐらい。
仕事も大事。家庭も大事。でも、物理的にどちらも全力は不可能。
すると、
恐ろしいぐらいに目の前のことに集中できなくなった。
抱っこをしていても仕事のことが頭をよぎる。でも、仕事をしていても早く帰らなくてはとどこかで焦る。
独身時代には全ての情熱を「仕事」に傾ければよかった。
理想に燃え、目の前の顧客に対してのベストを追求していた。
でも、今それをすれば、僕の家族はどうなるのだろう。
そう考えると、常に「セーブ」が働くことにかかるようになった。
これが苦しみだった。
誰しもが家庭を持てば働くことには「セーブ」がかかる。当たり前だ。
だけど、自分の「セーブ」は周囲の足を引っ張っているのではないかという後ろめたさが常につきまとい、自分の仕事に胸を張れなくなってしまった。
同じように家庭を持ちながら、自分よりも仕事への比重を大きくしながらもバランスをとって働いている先輩が沢山いた。当然、その先輩たちと僕自身、また僕を取り巻く環境は違う。
けれど…。
この「けれど…。」を僕はずっと消せなかった。
この「けれど…。」は僕を責め続けた。
働き方を変えても、残っている。
結局僕は自分と家族の働き方、どう生きいていくのかを考え、教諭という職を今年三月に辞した。
今年は非常勤講師として、業務の量を大幅に限定することでバランスを取ることにした。
子供と一緒にオフロスキーを見てから学校に行けるようになった。オフロスキーは本当に可愛いと家族で語り合っている。
遅い出勤にはある程度慣れた。けれども、やっぱり「けれど…。」が心の中に残っているのだ。
しかし、詩人・黒田三郎と出会ってから、その「けれど…。」と折り合いがつけられるようになった。
家庭生活と働くことの割り算でできた「余り」のような「割り切れない思い」が
が、どこか愛おしいものとして心の中に置いておけるようになったのだ。
今、共働きが政府により奨励される現代社会において、僕の抱いた悩み・感情はきっと、多くのパパ・ママが感じる種類のものだと思う。
だからこそ、沢山の人にこの詩集を知ってほしい。
きっと置いてけぼりの気持ちが、救われるはずだから。
しかし、この感情を1960年の男性詩人がはっきりと捉えていたことに驚きを禁じ得ない。
これが1960年の父親?2017年の父親もまるで変わらない!
2015年に夏葉社より復刊された詩集『小さなユリと』
『月給取り奴』
僕はこの道のしずかさにたえる
小さなユリを幼稚園へ送った帰り
きょうも遅れて勤めに行く道
働きに行く者は皆とっくに行ってしまったあとの
ひっそりとしずかな住宅地の
薄紫のあじさいの咲いている道
家々の向うのとおい彼方から
製材工場の機械鋸きしる音がきこえてくる
三年保育の小さなユリは
自分で靴を脱ぎ上履きにかえて
もう朝の唱歌のはじまっている教室へ上って行った
その小さなうしろ姿
あさっては妻が療養所へ行く日
小心で無能な月給取りの僕は
その妻をひとり家に残し
小さなユリを幼稚園へ送り
それからきょうも遅れて勤めに行く
働きに行く者は皆とっくに行ってしまったあとの
ひっそりとしずかな道を
バス道路へ出る角で
僕は言ってやる
「ぐずで能なしの月給取り奴!」
呟くことで
ひそかに僕は自分自身にたえる
きょうも遅れて勤めに行く自分自身にたえる
『小さなユリと』昭森社
初読の感想:あれ!?俺がいる!?
黒田三郎の詩には「子育て・生活」と「仕事」の間にある「苦しみ」も「穏やかさ」も、そのどちらもを誇張することなく表現されている。まやかしでない、確かな生活感が感じられるから、響くのだと思う。
美化することもなく、ひどく卑下することもなく語られる「小さなユリ」と「黒田三郎」の詩に、自分の日々の慌ただしい生活と、その生活が持つ確かな美しさに、読み手は気づかされるはず。
この詩集の代表作は「夕方の三十分」。ここでは紹介しませんが、検索するとすぐ読めるので、気になった人は触れてみてほしい。
今年いっぱい頑張った方々への、心の栄養補給になったらいいな。
歩いているうちに
歩いていることだけが僕のすべてになる
小さなユリと手をつないで
『小さなあまりにも小さな』より。
うちの「小さなユリ」。