最大の敵は飢え。
主夫生活を一ヶ月続けて、ようやく気がついたことがある。
それは、
自分の腹が常時減っているということだ。
いつだって空腹なのだ。
これは大問題である。
睡眠、一人時間、大人との会話…自分が穏やかな状態でいられるために必要なものはたくさんある。どれも不足状態だ。
しかし、やはり最も問題なのは、
絶え間ない空腹感。
こいつが僕を一番カリカリさせていることは間違いない。
原因は何か。
・子供二人が予想以上にご飯を食べてしまい、僕の分を削らざるを得なくなる。
・子供二人にご飯を食べさせるのに必死で、自分の分を食べる間がない。
・子供二人の食べ物センサーが高精度すぎて、隠れて食べても見つかってしまう。
・見つかった場合、えらい勢いで騒ぎ、挙句泣き出す。
・合間を見てものすごい勢いで口の中にご飯をかきいれていくので、食べた気がしない。
・基本残飯処理係であって、「ご飯!」を食べている気がしない。
・コンビニに立ち寄れば一悶着起こるので、極力起きている時は避けたい。だから簡単に食料が買えない。
といったところが挙げられる。
どれだけボロボロになっても、肉だけは離さない。
ロックオンした食べ物は、逃したら泣く。
対策はただ一つ、食べ物を見せないこと…。
本当に手強い男ですよ…。
僕は元々その傾向が強いが、男女を比較しても一般的には
腹が減った時の能力低下率・機嫌の悪化率が女性より高い
のではないかと僕は勝手に考えているんですが、どうなんでしょうか。
そして誰か…子育てをしながら腹を満たす知恵をこの私めにお授けください😭
主夫生活開始二週間。
「自分は子育ては向いているような気がする」と思っていた。
気がしただけだったことを妻と子ども達に謝罪したい。
もうびっくりするほど、毎日不機嫌で子どもに怒り散らしている。
どれほどか。
娘がアンパンマンのお絵描きボードに絵を描いた。
「お父さん!」
ほほう、お父さんか、嬉しいじゃないか。
丸い輪郭と目が書けていて、ずいぶん人っぽい絵が描けるようになったな。
「お父さんね、怒っとる。もー!って言っとる。」
泣きそうになる。
お父さんのイメージは「バイキンマン」から「怒っている人」になった。
主婦生活がどんなものか、わかっていたつもりだったけど、やっぱり全然わかってなかった。
子どもと四六時中一緒にいながら、生活を回すということの意味、妻のそばにいて理解出来ているつもりだった。
けど、実際やってみたらやっぱり全然違う。
「優しいお父さん」でいることなんて出来ない。
だって、
気がついたらお菓子を発掘して頬張っていたり、
うっかり二重ロックを書け忘れたら、外に出ようとしていたり…。
生活の中には「危ない!」「ダメ!」という場面が多すぎる。
勿論そうならないように環境を整えるのことが大事だってこともわかるけど、
慣れない生活の中で、すぐにそれができるほど余裕はないし、
物理的に不可能なこともある。
そんな中、
「みーちゃんがしたいの!!!!」と常時主張する2歳女児と
「キャァァァァーーーーーー!!!(あれ食べたい!!)」と金切り声をあげる大食漢の1歳児を前に、うまく受け流せずどうしても不機嫌レベルを高めていってしまうのだ。
子ども達と自分が笑顔でいるために。
食事、睡眠、遊び。
この三つがしっかりできていると、子ども達は落ちつく。
しかしだ。
食事は調理→盛る→食べさせる→片付ける→洗い物といった手順が発生する。
かなり手間がかかる作業だ。しかも、朝昼晩、加えて補食2回を要する。
彼らは異様によく食べるし、腹をすかす。
うっかり段取りをミスしたり、トラブルがあれば、
「キャアアアアアアアアアアアアア」
という金切り声が響き渡ることになる。
睡眠に関しては、下の子は朝寝と昼寝、上の子は昼寝を要する。
しかし、朝寝のタイミングでお姉ちゃんが寂しくてついてくる。
「シーーーだよ。ゆーくん寝るからね。」と伝える。
「わかった!」とみー氏が答える。
布団につく。
2分後
「ゆーーーくん!!!」と娘が雄叫びを上げながら、息子の枕元に飛びかかっている。
息子も興奮して起き出す。
不機嫌度MAX。
最後に遊びだが、「子どもを外に遊びに連れ出す」ということは、食事や睡眠のみならず、洗濯や掃除など生活のルーティンが滞留しない程度にできていて、荷物・弁当の準備もできていて…ということになる。
そんなパーフェクトにできるわけないが、ずっと家にいたらお互いとんでもない状態になるので、無理やり外出する。
するとどうだろう。
洗い物や洗濯物、掃除が後回しになるではないか!
あまりに生活ルーティンを溜めると、サイクルが破綻するので、なんとか早起きしたり睡眠時間を削ったりして頑張る。
するとどうだろう。
風邪をひいたりコンディション不良となり、不機嫌度があがるではないか!
子どものために生活ルーティンを段取り良く手早く済ませたいが、そのルーティンワークは子どもと一緒にいると驚くほど非効率になり、不機嫌度が増すという恐ろしいほどの相性の悪さ。
なんという無理ゲー。
2週間で得た結論
子ども達は勿論可愛い。
けど、
子育てに向いている人が「幼児二人と生活しながら『いつも優しい人』でいられる人」を指すのなら、「子育てに向いている人」なんてこの世に存在しない。
昔、妻に対して「なんでそんなに怒っているのかな…。」と思ってしまうこともあった。
今、謝りたい。
性別とか個人の性格や能力とか関係ない。
この状況に置かれて感情を揺さぶられずにいられる人間なんているわけない。
もしいるならば、その人は仏。多分もう解脱している。
まるで修行僧のような厳しい状況下の生活。
そんな中必死に皆が少しでも充実した時間を過ごせるように頑張ってくれていた妻及び、家事育児に従事されている全ての人への畏敬の念を抱きつつ、なんとか明日からの生活、頑張っていこうと思う。
森のようちえん親子組まとめ:行って良かった、娘の変化。
3月14日、森のようちえん親子組の最終登園を終えてきました。
娘が小さな声で「ありがと、バイバイ」というと、
皆がタッチしに来てくれて「またね!」と言ってくれました。
後半、僕の迂闊な行動のせいで足が遠のきがちになってしまったけれど、
最後に皆と暖かな別れの時を過ごすことができて、娘の表情に晴れやかさと寂しさが表れていて「ああ、最後に挨拶ができて良かった。」と思いました。
この森のようちえんでは、
・毎回別の場所で色んな経験をした。
(これは田んぼに入って泣きじゃくっているの図)
・めちゃくちゃパワフルなお兄ちゃんお姉ちゃんたちに出会った。
(まるでジャングル探検隊だ。)
・めちゃくちゃ怖い何かに出会った。
(この鬼の圧倒的な実在感。)
こんな経験のおかげで、娘は色んな面で成長できました。
その中でも特筆すべきなのが、
自然に対する親しみ&畏敬&野生度大幅アップ!
この点。
まぁ彼女はとにかく、よく枝を拾って振り回すようになった。
そしてはだしストになった。
川や水場を見つけると、「入りたいー」と言うようになった。
多少の探検にはたじろがなくなった。
どこでも寝られるようになった。
何かの実を見つけると「食べられるかもしれん」と言うようになった。
雪を触れるようになった。
毎回色んな所に行ったので、既知の場所では怖がることなく過ごせるようになった。
まちがいなく、娘は以前よりずーーーーーーっとたくましくなりました。
お友達になって、関わってくれてみんなありがとう。
またね。
森のようちえん親子組まとめ:父の失敗編。
今日で森のようちえんの親子組も最後。
子供たちと野山を駆け巡り、
「何か食べられるものはないか…」
と、常時食材ハンター化し、
「何か良い遊び道具になるものはないか…」
と、時に木材ハンター化していた日々が終わる。
突然「ゾンビだー!!!」とゾンビ扱いされる日々も終わる…。
仲良しの園児R氏ともお別れ。寂しい限りである。
そこで今回と次回は森のようちえんの親子組に一年間通ってのまとめの記事を書こうと思う。良かった点は次回に回し、 今回は1年間を終えて、子供を同伴する父として「やっちまった…」という非常に大きな失敗について振り返る。
その失敗とは…
本気で遊びすぎた。
これである。
子供たちと思いっきり遊ぶこと。自分はこれが大好きだし、子供たちにとっても大人と思い切り遊ぶ時間は大事なことだと思っている。今でもそれは変わらない。
けど、この父の振る舞いが結果として、森のようちえんを娘にとって楽しい場所でなくしてしまったのだ。
12月や1月ぐらいから、娘は僕と一緒に園に行くのを嫌がるようになった。
「怖いからかな?」
「お母さんと離れたくないからかな?」
「お父さんが皆と遊んで、お父さんを取られるのが嫌なのかな?」
そんな風に理由を考えていたが、ある日そのいずれでもないのだと気づいた。
「お名前呼び」というものがある。
朝の会で、「⚪︎⚪︎ちゃん、おー返事聞きたいな。」とみんなで言って、
呼ばれた子が元気に「はーーーい!!」と返事をする。とても大事な時間だ。
この日まず、僕の名前が先に呼ばれた。
子供たちから、明るく大きく、明瞭に。
次に娘の名前が呼ばれた。
先ほどよりも小さく、曖昧に。
「あれ…?」
朝の会が終わった後、子供たちが僕たちの元にやってくる。
「Kくん!遊ぼう!」
「Kくん!僕味方だよ!」
「Kくん!あっちいこう!」
娘を抱っこしてほぼ一体となっている僕ら親子。
でも、ほとんどの子が僕の名前を呼ぶ。
この時、ようやく娘が来るのを嫌がる理由を悟った。
娘は、ここでは皆がお父さんばかりを構い、自分自身の存在を見てもらえないと感じるから、来たくないのだ。
断っておきたいのは、森のようちえんの園児たちも先生方も、いい人ばかりである。
問題は、園にはない。あったのは僕にだ。
みーちゃんではなく、「Kくんのこども」。
僕は子どもが生まれた当初、「みーちゃんのパパ」と呼ばれることに違和感を持つことがあった。娘を介して繋がった関係だけど、僕は僕自身だから、僕の名前や苗字で呼んでくれたっていいのに。そんな風に感じていたのだ。
しかし、森のようちえんでは親子組の保護者も一人の人間として「名前」を呼んでくれる。僕は、それが嬉しかった。
「保護者」ではなく、一人の個人として子どもたちも扱ってくれているんだと感じたから。
でも、僕はそのことに有頂天になって、羽目を外してしまった。
みーちゃんのパパとしてでなく、一個人として、
本気で遊んで、本気で楽しみきってしまった。
本気で遊ぶ大人との時間は、子どもにとっては刺激的だ。
大人は加減をわきまえ、気遣いしながらも、圧倒的な迫力で鬼ごっこの鬼を勤めあげることができる。
大人はゾンビの動きも幼稚園児よりははるかに上手くこなせる。
結果、子ども達は大人の僕と遊ぶのが大好きになり、娘ではなく、僕という大人の遊び相手が来ることを楽しみにするようになった。
娘と共に集合場所に行くと、まず「あ、Kくん!」「Kちゃんだ!!」と皆が言う。
活動中も、皆が寄ってくる。
僕はよく考えもせず、トトロ気分でいい気になっていた。
が、これはとても残酷なことだ。
うちの娘はいつも言う。
「みーちゃんが!」
『お母さんといっしょ』の「ブンバボン」をテレビに合わせて歌えば、
「みーちゃんが歌うの!」という。
ズボンを履かせようとすれば、
「みーちゃんがはくの!」という。
履き終わったら、
「みーちゃんできたの!」という。
彼女はいつだって、自分自身を主張し、見てほしがっている。
それなのに僕は、遊びに夢中になって娘を見てやれていないばかりか、娘の存在を薄めるようなことばかりしていたのだ。
幼稚園は子ども達にとって、子ども達の関係が中心であるはずの場所。
彼らが僕を「Kくん」と呼んで、僕自身を認識してくれたとしても、「保護者」である僕は「みーちゃんのパパ」という認識を受けるような存在感であるべきだったのだ。
なのに僕は「みーちゃん」を、「Kくんの子ども」にしてしまった。
父親失格だ。
娘の人間関係を作る努力ができていたのか。
反省点は他にもある。
その空間の中で、娘が他の子との関係ができていれば、保護者である僕が本気で遊んでも、「娘とその友達と一緒に遊ぶ」になるから娘はきっと笑顔だったろう。
また、娘と他の子の関係ができていれば、
「お父さんがなんか勝手に遊び狂っているが、あいつはほっといて仲良しの友達と遊ぼう」となって、父のことは嫌いになったかもしれないが、まぁまだよかっただろう。
僕が親子組の中で失敗したのは、この娘の関係をしっかり作る前に、「僕と子供達の関係」を強烈に作ってしまったことだ。
関係づくりができていなかった要因としては大きく三つある。
⒈週1回しかないのに遅刻が多い(早退も多い)、欠席も時たまあった。
⒉年の近い友達の近くに行かせていなかった。
⒊娘と園児をつなぐ声がけができていなかった。
もう…ほんとにあかんかったと思う。
ママはしない、パパだからする失敗。
こんな失敗はママならしない。
でも、僕みたいなことは、パパならしてしまう人がいるかもしれない。
多くのパパは遊ぶのが大好きだから。
この本の中でも、家族で休日の公園に行ったところ、パパがよその子どもたちとばかり遊んでいて、ママの怒りスイッチがONになるという場面が出てくる。
みんなと遊ぶこと。それはとっても楽しい。パパ自身が疲弊しながらも、楽しんでいる部分は多々ある。でも、その時ママのみならず、我が子が置き去りになってしまうことがある。
それが、きっとママは嫌なんだ。
僕はこの教訓で得られたことを忘れないように、来年度以降の父親をしていこうと思う。どうか、僕と同じ過ちを起こすパパが今後いないように願います。
今回はやたら暗くなったので、今日最後の登園をした後は、たくさあった良い点の記事をしっかり書こうと思います。
1歳誕生日用おもちゃと大人が欲しい高級おもちゃ。
息子の1歳の誕生日が近づいている。
うちのボーイは最近突発性発疹にかかり、最近ずーーーーーっと不機嫌で、あまり笑顔にしてやれていない。
正直、不憫に感じている。
なぜかというと、お姉ちゃんの時にはやれ月齢に合わせたおもちゃだ、やれ知育玩具だ、やれアンパンマンだと、次から次へと新しい物質が供給されていたが、彼には彼用のおもちゃというものが買い与えることがほとんどないからだ。
新しいものを弟用に買っても、姉が理不尽にも
「これ、みーちゃんの?」
「い、いや、弟のだよ。」
「これ、みーちゃんの!」
「ふ、二人で使ってね。」
「みーちゃん使う!」
という、やりとりを経て我が物という認識を持ってしまうのである。まだ2歳なので仕方がないのだが。
普段買ってやれていないから、少し奮発してやりたい。
そんな思いで、今財布の紐が緩み始めている。
我が家には、この積み木がある。
ベネッセのWorldwide Kidsという英語教材のステージ3についていたオシャレで面白い形をした積み木である。
変わった組み方ができて面白い。
ところが最近、鳥取市のわらべ館に、このネフ社が作っている他の積み木、おもちゃが色々と置いてあったことに気づいた。ここで僕はネフ社の虜になる。
まず心を掴まれたのはこれ。
正方形の小さい積み木で、とても綺麗な発色をしている。
まさに本物。積み木としても使えるし、箱の中で様々なパターンを作ることができる。
しかし、これは1歳児には早すぎる。食べてしまう恐れすらある。
ネフ社のこれらの積み木は基尺が同一なので、なんと組み合わせて遊びやすいのだとか。
ふむ、夢が広がるな。
次にネットで検索して目をつけたのがこれ。
先ほどのネフスピールと同様の5cm基尺の立方体。その真ん中に円柱が入っているという代物。この円柱のおかげで面白い組み合わせが可能なんだとか。
ふむ、この円柱を刺したり抜いたり…楽しそうだな。1歳児の心を鷲掴みにするのではないか。
しかし、懸念もある。何分数が多い。小さい子供は沢山の物質を与えると嫌になってしまうことがある。また、とにかく値段が張る。
値段が張るのは最悪無視できるのだが、買った後、妻の「いくらしたの?」という追求にしらを切り続ける自信がない。 なんとか黙秘を続けても検索されたらチェックメイトだ。そんな無理はできない。
次に目をつけたのはこいつである。(こやつはネフ社製品ではない。)
なんとビー玉が転がせる。
え、ほんとか、5cm基尺でありながらビー玉を転がすギミックが!?
感動である。ネフスピールやリグノと遊んだ後、キュボロを買えば、積み木の造形物の中にビー玉転がしのギミックを組み込める…。ピタゴラスイッチを愛する我が家の子供たちは大歓喜ではないか。
しかし、懸念はある。まず、1歳になる息子にはまだビー玉は早い。誤飲の可能性大で危険だ。更に、先ほどのリグノよりも値が張る。これを買うことはあらゆる面で危険だ。
値段、量、サイズ、出来る遊び、そして発展性…。これらのバランスを考える必要がある。悩んだ末、辿り着いた答えが、これ。
例の「リグノ」に棒を差し込める穴を開けた積み木おもちゃである。
立方体4個、円柱4個、紐通し1つ。
これで1万円。
…………………。
賭けてみるか、これに。
気づいたことがある。
……。
どうやら、おもちゃが欲しいのも、ワクワクしているのも僕らしい。
シグナ、リグノ、キーナーモザイク、キュボロ。全て買えば15万はくだらない。
…子ども時代には自分の意志で絶対に買えないおもちゃを自分の子どもを口実に、買わんとする、僕の中の子どもがいる。
結論。
このおもちゃが欲しいのは、俺。
…。
目を覚ませ、俺!!どこにそんなお金がある!!
心の中の闘争は続く。息子の心を置いてけぼりにして…。
「無理めのやつ」である父親を考える。
「無理めのやつ」=選択肢を相手に与えるためのダミー、潰れ役。
最近息子と娘にとって、父はよく「無理めのやつ」である。
画像:無理めのやつを提示された子どもの表情。
「無理めのやつ」とは、何か子どもにして欲しいことがあるときに提示するダミーの選択肢である。
例えば、就寝前に歯の仕上げ磨きをしたいときに用いられる。
「ねぇみいちゃん、歯磨きお父さんにしてもらいたい?それともお母さんにしてもらいたい?」
太字部分が「無理めのやつ」である。
この声かけを聞いたとき、選択肢が3つ生まれる。
A「歯磨きを拒否する。」
B「歯磨きをお父さんにしてもらう。」
C「歯磨きをお母さんにしてもらう。」
Aは確実に通らないと子どもも理解している「無理なやつ」である。しかし、提示すると選びかねないので提示しない。
Bは魅力的でない選択肢。95%こちらは選ばれないとわかっている「無理めのやつ」である。
Cが本命。子どもにとっても妥当で現実的な落ち着きどころとなる。
要するに「歯磨きするね?」という声かけだとA「嫌!ノーセンキュー!」を容易に誘発して厄介なので、もはや仕上げ磨きの実行を前提にして「父か母か」という選択肢を与えることによって、自分が選んだ気にさせるという詐術を用いているのである。
最近、「ママがいい!」を言われ慣れてきた僕は、ついにそれを逆用する術を覚えたということなのだ。
これが驚くほどはまり、子どもはスムーズに誘導されてくれる。
「これも『父親の役割』、つまるところ『潰れ役』をするということなのか」
と、何か一つの悟りを得た気分になった。
しかし、その策の驚くほどの効果に、僕は溺れていってしまったのである。
策士、策に溺れる。
「お父さんがする?それともお母さんにしてもらう?」の効力を知った僕は、ここぞとばかりにこれを使いまくった。
朝食の時、おでかけの時、トイレの時、お風呂の時、寝かしつけの時。
しかし、これを続けることで不味い効果が2つあったことを、僕は認識できていなかった。
一つは、「お父さんはつぶれ役、実行役はお母さん」という謎認識が僕の心の中に芽生え始めてしまったこと。
もう一つは、妻の怒りゲージが日に日に増大していたことだ。
どういうことか解説しよう。
この「答えのほぼ決まっている選択肢」は子どもに対してさせてほしいことを子どもが受け入れてくれるので、親としては楽なのだ。
そして、「お母さんがいい!」に慣れてきた父親にとって、この選択肢の提示は更に楽なのだ。
実際に歯磨きしたり、ご飯を食べさせたり、トイレトレーニングをしたり、実行する役をお母さんに丸投げ出来てしまいながらも「自分は潰れ役を請け負った」等と半端に役割をこなした気になれるので、心理的負担も皆無。
自分にとって一見なんのデメリットもない。
しかし、お母さんにとっては違う。子どもが納得しても、実際に仕上げ磨きをする作業はかなりの労力を要するのだ。
それなのに夫は毎回「自分は実行しなくてもいい楽な選択肢」を子どもに提示して、楽をして、役割をこなした気になって、あまつさえぬくぬくと布団に入って目をつぶっているのだ。
寒い中布団に入れず仕上げ磨きを頑張ってしている自分の横で、だ。
これが繰り返される。
正直「殺意」すら湧きかねないと思う。
我が妻は、ある日、全くの無表情で「・・・やって?」と歯ブラシを僕に渡すという大変マイルドな方法で僕にこの問題点を示唆してくれた。
殺意を抱く前に教えてくれたのである。
ありがたや。
「お母さんがいい!」の一歩先に。
歯ブラシを渡された。
「今日はお父さんが仕上げ磨きしたいんだけど、いい?」と言ってみる。
「お母さんがいいの!」と娘は言う。
「優しくするから、させてほしいな。」と食い下がる。
最初は嫌がりながらも、しぶしぶさせてくれる。
口を閉じたり、歯でブラシを噛んで動きを封じてきたりする。
お腹をつついたり、変な顔をしたりして応戦する。
「でへへへへ」 と二人笑う。
意外に、させてくれるのだ。
今回のことでわかったことがある。
やってみると、意外にお父さんでもオッケーなことは多い。
勿論そうじゃない日も結構あるのだが。
あの「お母さんがいい!」は、子どもの心にあらかじめプログラムされている自動反応なのだ。お母さんかお父さんかの選択肢を提示すればお母さんをほぼ選ぶ。
でも、「お父さんでもいい。」と受け入れるキャパシティが子どもにはあって、「お父さんも意外にいい!」は後天的に、経験として子どもは得ていくものなのかもしれない。
常に子どもから愛情を求められ、時に辟易し、拒絶やケンカを経ながらも関わり続けなくてはいけない立場にあるのが母親だとしたら、父親はどんな立場なのか。
ママがいい事件から自分に投げかけていた問いに、現時点での答えが出せそうだ。
常には子どもから愛情を求められなくとも、嫌がられながらも、時にそんな立場に辟易し、ケンカしながらも、関わるのを止めないのが父親。
「お母さんがいいの!!」と泣き喚く彼らの、「お父さんでもいいよ。」となる瞬間を、関わりながら粘りづよく待つ。来る日も来る日も、嫌がられながらも。
それが現時点での、僕の考える一つの理想の父親像だ。
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**お知らせ**
ENMAカードの遠隔セッション、継続セッションをはじめました。
また少しずつ記事にしてお知らせしていきます。気になる方がいらっしゃったらお気軽にメッセージくださいね。
バレンタインの策士。
今週のお題「バレンタインデー」
バレンタイン論争。
それは、母親・祖母・親族からのチョコを、もらったチョコレート数にカウントするか否かを巡る論争である。
僕は迷わず前者だ。小学生の頃から前者で貫いてきた。
僕が「2個もらったよ!」と言えば、それは母・祖母からの2個だということだ。
今年「5個もらったよ!」といえば、妻・母・義母・義祖母・義妹からそれぞれもらったということだ。
大体だ、肉親からのチョコをカウントしないなんていう奴は、一体どこのモテ男なのだと。自らの勇(チョコ獲得数)を誇るような愚かしい主張ではないか。
許せぬ。断固許せぬ。
・・・しかし待てよ。
思い返してみれば、僕の周りには「チョコ10個もらったぜ!」等と吹聴してまわる輩はいなかったように思う。
この世にそんな漫画みたいなモテ男はいないのか。
それとも真のモテ男は自分がチョコを大量にもらった事を誇るなんて愚かな真似はしないのか。そんなことをしても誰かが妬んだり傷ついたりするだけだとわかっているから・・・さすがモテ男だ。
夫婦のバレンタインデーの歴史。
バレンタインデーは、毎年妻がチョコをプレゼントしてくれていた。
生チョコなどの手作りの年もあれば、高級なチョコを買ってくれる年もあった。
二人のバレンタイデーの歴史は、まさに妻にとって試行錯誤、苦闘の歴史だったろうと思う。
僕の生家は煎餅屋だ。
甘いものはグミ以外ほとんど食べないような偏った嗜好の持ち主に育った。
レストランのビュッフェでも、デザートをとらないことがざらにある。
手作りしても高級チョコを贈っても同じような結果だった。
去年は僕が板チョコが好きだと言うから高級板チョコを贈ってくれた。
けどそれでも全て「美味しいね」という通り一遍の反応。
贈ってくれたことへの嬉しい気持ちがありつつも、目の輝きが伴わない。
僕の言う「美味しい」は彼女が高級チョコを食べた時に感じる「美味しい」とは違っている。
僕の感度が鈍すぎて、感動が共有できないのだ。
妻に毎年募る徒労感。
正直、逆の立場だったら何度かブチ切れて小一時間問い詰めていたと思う。
「コーラアップ食ってる時と同じ顔してんじゃねぇよ!!」
と。
いや、本当最低だと思う。
そして、妻は今年決断するに至った。
「チョコ贈与制度の廃止」
子育てに追われる中で、時間的にも経済的にも、チョコにそんなにコストをかけていられない。大体かけたところで大して喜ばない。だから・・・と妻が代替策として考案したのが、
娘と二人でクッキーを作って、みんなで食べる!
家族共有型イベントへの切り替えである。
娘が作ったクッキーだったらむせび泣きながら喜んですぐ食べるだろうという妻の目算。
完璧にヒット!父はこの上なく喜んで「美味しい!美味しい!」を連発。(なんだそれ。本当最低!)
更にこの策は大のお菓子好きである娘のメイキング魂に火を付けた。
その日の昼に県立図書館に二人ででかけた所、
「これ借りる!」とこの本を持ってきた。
・・・料理本コーナーがどこかも知らず、文字も読めんはずなのに。
なんて嗅覚!
というわけで
妻の経済的・時間的・食育的・教育的配慮から、当家バレンタイン政策は路線変更となり、それはかなり大当たりとなったのである。
変わっていくのも良し、でも寂しさも・・・。
家族構成が変わり、こうした行事も子供中心になっていく。
自分たちの状況によって、形を変えていく。
「こういうことも必要なんだろうな」
そう思いながら、妻からバレンタインのチョコが貰えないことに一抹の寂しさを覚えたりして…。
と思ったら次の日、冷蔵庫の中に、
妻の手作りチョコが。
策士すぎる。
チョコがなくなったことに身勝手にも寂しがるところまで想定していたというのか・・・。
あなたの完璧な心遣い、感動しました。ありがとう。
こうして振り返ってみると、バレンタインデー、いつも頑張ってくれてたなぁ。
育児で色んなイベントが子供中心になっていくなかで、それは今は仕方ないって思ってた。
けど、結婚記念日や誕生日、クリスマス、彼女みたいに変化の中で抱く寂しさにまで気を回す策士で、僕はいただろうか。
反省。ごめんね。