ゼロチチ!〜0から父親になろう〜

2児の子育てに奔走する新米パパの家庭進出ブログです。

森のようちえん親子組まとめ:父の失敗編。

今日で森のようちえんの親子組も最後。

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子供たちと野山を駆け巡り、

「何か食べられるものはないか…」

と、常時食材ハンター化し、

 

「何か良い遊び道具になるものはないか…」

と、時に木材ハンター化していた日々が終わる。

 

突然「ゾンビだー!!!」とゾンビ扱いされる日々も終わる…。

 

仲良しの園児R氏ともお別れ。寂しい限りである。 

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そこで今回と次回は森のようちえんの親子組に一年間通ってのまとめの記事を書こうと思う。良かった点は次回に回し、 今回は1年間を終えて、子供を同伴する父として「やっちまった…」という非常に大きな失敗について振り返る。

 

その失敗とは…

 

本気で遊びすぎた。

これである。

 

子供たちと思いっきり遊ぶこと。自分はこれが大好きだし、子供たちにとっても大人と思い切り遊ぶ時間は大事なことだと思っている。今でもそれは変わらない。

 

けど、この父の振る舞いが結果として、森のようちえんを娘にとって楽しい場所でなくしてしまったのだ。

 

12月や1月ぐらいから、娘は僕と一緒に園に行くのを嫌がるようになった。

 

「怖いからかな?」

「お母さんと離れたくないからかな?」

「お父さんが皆と遊んで、お父さんを取られるのが嫌なのかな?」

 

 そんな風に理由を考えていたが、ある日そのいずれでもないのだと気づいた。

 

 

「お名前呼び」というものがある。

朝の会で、「⚪︎⚪︎ちゃん、おー返事聞きたいな。」とみんなで言って、

呼ばれた子が元気に「はーーーい!!」と返事をする。とても大事な時間だ。

 

この日まず、僕の名前が先に呼ばれた。

子供たちから、明るく大きく、明瞭に。

 

次に娘の名前が呼ばれた。

先ほどよりも小さく、曖昧に。

 

「あれ…?」

 

朝の会が終わった後、子供たちが僕たちの元にやってくる。


「Kくん!遊ぼう!」

「Kくん!僕味方だよ!」

「Kくん!あっちいこう!」

 

娘を抱っこしてほぼ一体となっている僕ら親子。

でも、ほとんどの子が僕の名前を呼ぶ。

 

この時、ようやく娘が来るのを嫌がる理由を悟った。

 

娘は、ここでは皆がお父さんばかりを構い、自分自身の存在を見てもらえないと感じるから、来たくないのだ。

断っておきたいのは、森のようちえんの園児たちも先生方も、いい人ばかりである。

問題は、園にはない。あったのは僕にだ。

 

みーちゃんではなく、「Kくんのこども」。

 僕は子どもが生まれた当初、「みーちゃんのパパ」と呼ばれることに違和感を持つことがあった。娘を介して繋がった関係だけど、僕は僕自身だから、僕の名前や苗字で呼んでくれたっていいのに。そんな風に感じていたのだ。

 

しかし、森のようちえんでは親子組の保護者も一人の人間として「名前」を呼んでくれる。僕は、それが嬉しかった。

 

「保護者」ではなく、一人の個人として子どもたちも扱ってくれているんだと感じたから。

 

でも、僕はそのことに有頂天になって、羽目を外してしまった。

みーちゃんのパパとしてでなく、一個人として、

本気で遊んで、本気で楽しみきってしまった。 

 

 

本気で遊ぶ大人との時間は、子どもにとっては刺激的だ。

 

大人は加減をわきまえ、気遣いしながらも、圧倒的な迫力で鬼ごっこの鬼を勤めあげることができる。

大人はゾンビの動きも幼稚園児よりははるかに上手くこなせる。

 

結果、子ども達は大人の僕と遊ぶのが大好きになり、娘ではなく、僕という大人の遊び相手が来ることを楽しみにするようになった。

 

娘と共に集合場所に行くと、まず「あ、Kくん!」「Kちゃんだ!!」と皆が言う。

活動中も、皆が寄ってくる。

僕はよく考えもせず、トトロ気分でいい気になっていた。

 

が、これはとても残酷なことだ。

 

うちの娘はいつも言う。

「みーちゃんが!」

 

『お母さんといっしょ』の「ブンバボン」をテレビに合わせて歌えば、

「みーちゃんが歌うの!」という。

 

ズボンを履かせようとすれば、

「みーちゃんがはくの!」という。

 

履き終わったら、

「みーちゃんできたの!」という。

 

彼女はいつだって、自分自身を主張し、見てほしがっている。

 

それなのに僕は、遊びに夢中になって娘を見てやれていないばかりか、娘の存在を薄めるようなことばかりしていたのだ。

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幼稚園は子ども達にとって、子ども達の関係が中心であるはずの場所。

 

彼らが僕を「Kくん」と呼んで、僕自身を認識してくれたとしても、「保護者」である僕は「みーちゃんのパパ」という認識を受けるような存在感であるべきだったのだ。

 

なのに僕は「みーちゃん」を、「Kくんの子ども」にしてしまった。

 

 父親失格だ。

 

娘の人間関係を作る努力ができていたのか。

反省点は他にもある。

その空間の中で、娘が他の子との関係ができていれば、保護者である僕が本気で遊んでも、「娘とその友達と一緒に遊ぶ」になるから娘はきっと笑顔だったろう。

 

また、娘と他の子の関係ができていれば、

「お父さんがなんか勝手に遊び狂っているが、あいつはほっといて仲良しの友達と遊ぼう」となって、父のことは嫌いになったかもしれないが、まぁまだよかっただろう。

 

僕が親子組の中で失敗したのは、この娘の関係をしっかり作る前に、「僕と子供達の関係」を強烈に作ってしまったことだ。

 

関係づくりができていなかった要因としては大きく三つある。

 

⒈週1回しかないのに遅刻が多い(早退も多い)、欠席も時たまあった。

⒉年の近い友達の近くに行かせていなかった。

⒊娘と園児をつなぐ声がけができていなかった。

 

もう…ほんとにあかんかったと思う。

 

ママはしない、パパだからする失敗。

こんな失敗はママならしない。

でも、僕みたいなことは、パパならしてしまう人がいるかもしれない。

 多くのパパは遊ぶのが大好きだから。

ふたりは同時に親になる: 産後の「ずれ」の処方箋

ふたりは同時に親になる: 産後の「ずれ」の処方箋

 

 この本の中でも、家族で休日の公園に行ったところ、パパがよその子どもたちとばかり遊んでいて、ママの怒りスイッチがONになるという場面が出てくる。

 

みんなと遊ぶこと。それはとっても楽しい。パパ自身が疲弊しながらも、楽しんでいる部分は多々ある。でも、その時ママのみならず、我が子が置き去りになってしまうことがある。

 

それが、きっとママは嫌なんだ。



僕はこの教訓で得られたことを忘れないように、来年度以降の父親をしていこうと思う。どうか、僕と同じ過ちを起こすパパが今後いないように願います。

 
今回はやたら暗くなったので、今日最後の登園をした後は、たくさあった良い点の記事をしっかり書こうと思います。