ポストシュフ宣言【後編】
人間は二人で一つになんてなれない。
えええええええ!いきなり前言撤回!?
この数週間何があった?!
とご心配の方、ありがとうございます。
夫婦共々多忙の極みでしたが、大丈夫です。
冒頭の一文は、正統な前編からの続きです。
前提の確認。僕らは個人である。
さて、前回
「僕は主夫(シュフ)ではなく、
夫婦二人で一つのキャリアを作る片割れのフ(夫)だ。」
という結論をまず出しました。
けど、誤解のないようにきちんと伝えておきたいのが冒頭の一文なんです。
これは、あの心に残る名ドラマ『コウノドリ season2』が出典。
(多分、このコウノドリというドラマ、特にseson2第3話は父親になる人全員が観たほうがいい。産婦人科でプレパパさんに「待っている間、ご覧ください〜♪」って強制視聴させるのが良いと思っている。)
産後うつ状態に陥り、自殺をはかりかけた妻(メアリージュン)は担当産科医(星野源)がかけつけたことで保護される。そこに連絡を受けた夫(ナオトインティライミ)がかけつけたというシチュエーションでこの言葉が登場します。
「大丈夫か…どうしてこんなことを…。言ってくれよ。
夫婦は二人で一つってお義母さんも言ってたじゃない…。」(夫)
「なんだそれ…。
人間は二人で一つになんてなれない。死ぬまで一人だよ。
たとえ夫婦でも、別々の人間だからこそお互いを尊重し合う。
それで初めて、助け合えるんだろ。」(医)
なんたる箴言。
二人の人間が以心伝心になることはない。
わかりあえない。人間はずっと一人である。
これがまず前提としてあるということ。これを強調しておきたい。
俺は妻を心の底から理解しているぜ!理解されているぜ!
妻がいないと生きていけないんだぜ!
なんてことは言わない。
それは嘘だ。
当然、妻がいなくなったら打ちひしがれるし、心に巨大な空白ができるだろうと思う。
生活もとんでもなく大変になる。
けど、そうなったらそうなったで、間違いなく僕は生きていくだろう。
しんどいながらも働き口を探して新しい生活を作っていく。
子供だって誰かを頼りながら育てる。
そもそも、いつ何時どんなアクシデントがあって片割れがいなくなるかもわからないのだから。
僕らは夫婦でいなくたって生きてはいける。
僕も妻も、主人でありシュフだから。
こうした個人としての存在の空気圧を互いに元々もっているからこそ、決して完全には理解しあえないし、溶け合えない。ぶつかり合う。
けど、きっと理解できなくて、理解してもらえなくて、無駄が多くてめんどくさいほうがどこかで豊かだと思っているから夫婦であり、家庭をもっているんだ。
僕の人生は僕に責任がある。
妻の人生の責任は妻にある。
けど、ぼくらは夫婦でいる。
主体的に家庭を作っている。
自分の人生の追求の先にある、パートナーの人生。
僕ら夫婦は「愛」という言葉が苦手である。
「愛」という言葉が持つ「自分よりも相手のことを大切に思う」という自己犠牲につながる部分に欺瞞を感じるからだ。
僕らは自分を犠牲にはできない。
僕らが一緒に生きているのは、どこまでも自分の実人生を良くしていこうという営みの結果だ。
貪欲に、自分の人生を豊かにしようと願っているから、パートナーと一緒に生活しようとする。
自分とは別の意志を持って活動する理解できない他者の要素を、深く自分の中に取り入れようとするから、家庭を持とうとする。
先立つのはいつだって自分。それは揺るがない真実だと僕は思う。
しかし、パートナーも同様なのだ。
自分の人生を豊かにしようと願い、自分の権利を家庭の中で全力でぶつけてくる。
これはもう完全に家庭のタイマンなのである。
(=マンツーマンが語源か。不良用語で一対一の喧嘩のこと。「タイマンはったらダチ!」とは何か(「バチバチBURST」最新話より) - 情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明)
毎日毎日、
恐ろしいぐらいに衝突し、傷つけあい、時に不機嫌を撒き散らしあい、がっかりしあいながらも、面倒臭いくささからなんとか逃げずに向き合っていく。
そうしたうちに、ベッドに仰向けに倒れこみ
「ハァハァ、お前…なかなかやるな(めんどくせえな)!」
「お前こそ…(めんどくせぇな)!」
と、なんだかお互いの面倒臭さをリスペクトし合う。
そして、相手も四六時中面倒臭い思考回路を持ちながらなんとか生きている自分と同じような人間がいるとようやく認識できるようになり、
自分でも「めんどくせえええええええ!!!」と辟易するほどの自分自身と、正面から向き合ってくれた上に、まがりなりにも意見を言って生活してくれる相手に
ウルトラリスペクトが生まれる。
分かりあえない所だらけでも、相手の人生も大事にしたいと願うようになる。
家庭の中で権利を主張しあい、尊重し合う夫婦へ。
僕たち夫婦は一つのライフキャリアを形成して、割り切ることはできない。
それは、生活と人生を共有して有機的につながっているからで、個人としての存在を放り投げたのではない。
お互いの人生を追求する僕らは、家庭内においても互いに権利を主張し合う。
その結果として、自分のパーセンテージを「仕事90%」にしたり、「家事育児90%」にすることができる。「学び60%」にもできる。それはその残りの割合を主体的に受け持ってくれるパートナーがいるから。自分のメリットにもなると受け取ってくれる人がいるから。
互いを尊重し合い、折り合うことで
二人で一つの可変的な家庭・形・キャリアをデザインすることができる。
お互いの「主体性」をぶつけあって一つの形を作るから、どちらかが何かの分野において「主・従」であるという概念はなくなる。
それを便宜上決める必要がある時は当然ある。それはそれでいい。
けど、本質的に夫婦の間に、「家庭」のあらゆる構築要素の中に主従はない。
僕らは夫婦は、どちらの「フ」も家庭の全てに権利を有している。そして、お互いが権利を行使し合う中で、家庭は正常にまわっていく。
その結果、二人の生活・人生は豊かになっていく。
こうした認識の上に立って、一つの形・家庭・キャリアを共に作ろうとする市民のような家庭の担い手が「フ(夫・婦)」であり、ポストシュフ的存在だと僕は考える。
最後に。
家庭の中に「権利」や「市民」といった考え方を持ち込むことは、軋轢を生みやすくし、適切てはないと感じる人もいるかもしれません。
けど、こうした見方で夫婦や家庭の違った姿が見えてくるような気がしています。
ぜひ、また読んで思ったことをお伝えください。
次回は「家事権」というものについて考えていこうと思います。