《主夫育児を通じて気づくこと-前編》大人と子どもの境界線
この9ヶ月、毎日ずっと子どもと過ごしてきて、しんどい時期をやっとこさ超えてきた感がある。
や っ と だ よ 。
相変わらずキャパオーバーを起こして、不機嫌ハイパー状態になることはある。
でも、昨年4月に比べれば頻度は3分の1。
支えてくださった方々、誠に多謝。
そして最近、自分の中に重大な意識の変化が起こっていることに気づいた。
それは…
「大人」「子ども」というカテゴライズが自分の中から消滅しつつある。
ということだ。
「 大人」と「子ども」の境界線
NHK教育のQ君も抱く素朴な疑問。
昔、学生時代には、学校を卒業していわゆる「社会人」になることが「大人」になることだと思っていた。が、なってみたら全然「大人」ではない気がした。
じゃあ「親」になったら「大人」になるのかなと思っていたが、そいつもどうやら違ったようだ。
子どもと大人の間に明確な境界線が引かれた世界の中に自分はいて、その中で生きてきた気がしていたが、
ここにきて「大人」と「子ども」が溶け合って、そうしてその境界線が消えてしまったのだ。
どういうことか。
つまり、子どもと共にずっと過ごすことで、
僕らは一緒にいながら「僕も娘も息子もそれぞれの発達を進めている」というあたりまえの事実に気づかされたのだ。
例えば、
息子は日々消化能力を高め、排泄コントロールを学んでいる。
僕は息子の排泄物を毎日見て、
「あぁ、きのこ類って本当に消化が難しいんだな…」と実感し、学んでいる。
そして娘は、
「ゆーくん、トイレの時は『トイレー!!』っていうんだよ?」
と教えて姉として在るということを学んでいる。
どこまでいっても、僕たちは発達の途上にある。「大人」という完成を、おそらく僕らが手にすることはない。死んだとしても、きっとまだ続く。
そんなことを認識し、我が子の方を振り返ると、僕らの間に「子ども」「大人」という括りはなくなっていた。
僕たちは共に、今生きる中でそれぞれ何かを発達させている。
ま、勿論便宜的に「大人」「子ども」という括りはあるわけだが。
娘談。
「お父さんは大人の味方。みーちゃんはま○ちゃんの、子どもの味方!」
あたりまえだ、ご飯をポイする「子ども」を許せるか!そこは譲れん!
子どもと共に過ごす中で学ぶイノベーション。
そんなわけで、彼らを育てるという名目で彼らと過ごす日々は、僕自身の発達とも結びつき、それらを進めるアイディアをくれる。そんな風に感じるようになった。
最近「ニッポンのジレンマ2019」に出演してい渡邉 康太郎という方が気になり、
『takram design engineering|デザイン・イノベーションの振り子』 (現代建築家コンセプト・シリーズ18)
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という書籍を購入した。まだ冒頭部しか読んでいないのだが、そこにこんな箇所があった。
熟練したデザイン・エンジニアは各マス目の専門家と専門用語を用いて対等に会話することができ、各要素の相対関係を掴む感覚を備える。
ただし最初からこのように複数の専門性を飛び越えていくようなスキルや経験を持つ人間はいない。まずは、ひとつの分野でプロフェッショナルとして通用するレベルの経験を積み、その後、その分野に隣接する分野の仕事を少しずつ積んでいくことで、2つ目の専門性を獲得する。典型的な例では、ソフトウェアのエンジニアリングを修めた者が、次にソフトウェアのデザインに入り、その分野でのデザイン・エンジニアとしての経験を積む。さらにその後、ハードウェアのデザインやハードウェアのエンジニアリングに入っていくようなパターンをとる。このように一つひとつをクリアしていくことで、分野を飛び越えていく感覚が、ごく自然に身につくようになる。
takramはこのような分野横断を「越境」という言葉で表現している。
子どもの場合、この「越境」の感覚が凄まじい。
というか「専門」など当然持たず、そもそも境を持たないゆえに、なんでもくっつける。とりあえず彼らは組み合わせる。
最近の息子の興味関心は「食べること」と「排泄すること」である。
そんな彼が最近よくにこやかな笑顔でする行動が、
おままごとの調理用ボウルを自分の履くおむつ前部に密着させ、「シー!シー!」と連呼すること
である。
料理と排泄が境を持たず、結合する。僕にとってはある種の「越境」である。
まさにイノベーション。
なんたるイノベーションだ!
帽子は鼻まで被るもの。
彼らのおかげで、明らかに同居しえない組み合わせも、意外にいけるんじゃないかと、とりあえずくっつけてみる発想が生まれるようになった。
そして、人生の中で得た様々な専門的知識、技術、発想が明らかに隣接していないように感じても「結合しうる。何か相互に影響を与えあって新たな価値を生み出しうるのではないか。」と考えるようになった。
どんぐり帽子×くるくるブロック×ブロック=グラディエーター
子育てはしんどい。だが、やはりそこには豊かさもある。
娘とおままごとをしていると、前提を大きく覆される反応をして、固定された回路を時にぶっ壊してくれるのが面白い。
例えば、おままごと中のこと。
お皿に載せたリング上の木製玩具。彼女はこれを「デザート」と読んでいる。
しかし、デザートを運んでいる最中、不意に足をとられ、つんのめる。
床にばらまかれる仮想デザート達。
瞬間、彼女は口走る。
「わたし、拾わない!!」
高らかな、どこか誇らしげですらある宣言だった。
そうか。こぼして「拾わない!」と宣言することも、できるのか…。
「拾って」と頼むでもなく、「こぼしちゃった」と嘆くでもなく。
起きてしまったアクシデントを前に、誇る。
そうか…。
彼女達との日々は、いつだって僕の中の垣根を壊してくれる。
自分の中に出来た、今までの秩序・思い込み・経験を疑い、壊し、大事なものを残し、再構築する。
親として今経験している発達段階とは、そんなものなのかもしれないなと感じる。
境界線の消失が生む、異年齢コミュニケーション。
そうして、「大人」と「子ども」という括りがなくなってくると、面白い変化が起きた。
なんだかあらゆる年齢層の人たちと、心の距離が近づいたのだ。
幼児達と共に過ごすのがうまくなったのは言うに及ばず、普段そんなに接しているわけでもない40代以上の方々とも、自分が持っていた「隔て」がなくなっている。
一方的関係ではなく、お互いに何かを相互に影響を与え、相与えうる存在だと気付いたからなのだろうか。
前回の記事
で、「友」について書いた。僕は元々「友情」についての感覚のにぶい男だった。
でも、子どもとの日々は僕に「友情」を求める心を掘り起こし、「友」を求める・「つながり」を求める回路を作り上げた。
それは今も動き続けている。今日会った1歳の彼とも、「友」になれたら嬉しいし、10歳の方とも、20歳の方とも、50歳の方とも、70歳の方とも、90歳の方とも、友となれたら嬉しいと思う。
そう思うようになったきっかけは、間違いなく「主夫」として過ごしたこの9ヶ月である。
次回はこの続きを書こうと思います。