ゼロチチ!〜0から父親になろう〜

2児の子育てに奔走する新米パパの家庭進出ブログです。

《主夫育児を通じて気づくこと-後編》遊びと学びと働くと暮らしがめぐる育児期間。

子どもとの暮らしが押し進める僕自身の発達。

主夫として子どもと一緒に過ごすようになって、「めちゃくちゃ発達したな」と思う部分がいくつもある。

 

まず一番にあがるのは、「交渉力」。

幼児の主張力はもの凄まじい。心の中に浮かび上がった欲求を時と場所を選ばずぶつけてくる。

 

 例えば車での走行中、7の看板を視認し次第娘は口を開いた。

 

 

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娘「おとうさん、アンパンマングミ買うっていうのはどぉ?

お店を意識し次第とりあえず言ってみるなど、浅はかな。

むしろオートで逐一言ってくるほうが断るのは容易いのだとなぜわからん。

 

父「グミ美味しいよねー。お父さんも食べたいわー。しかしだ、母親サークルに遅刻が確定したこの状況で、さらにコンビニに寄るのは致しかねるね。」 

と返答する。

 

娘「じゃあ帰りに買うっていうのはどぉ〜?

この程度のNOはお前も折り込み済みか。

 

父「朝、味噌汁残してたやん?あれは頂けなかったと思うんよね。」

とりあえず難癖をつける。

 

娘「ゆーくんもお腹空いてるよね?」

弟「うん!

華麗に巻き込む。

 

娘「お父さんも何か買っていいよ…!コーヒーとか。」

俺が眠くてコーヒーに手をだしたいということまで計算づくか。っていうか買うことを「許可」してくれるんか。

 

父「大丈夫!お父さんお弁当作ったし、お腹空かせたほうが弁当は美味しくなるから!今日は…デザートのフルーツもあるんだなー。」 

フルーツのインパクトで話線を逸らす。

 

娘「え!何!?」

 食いつく。

 

父「フルーツって、どんなのがあったっけねぇ?バのつくものもあるし、他には何があったっけ…?」

勝ったな。

 

娘「んーーーーーーーーー…チョコじゃない?」

わー、グミから話線が逸れてチョコになったー。

 

 

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「わたし、ほしいものはほしいといいます。」

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僕自身はホテルマンという職業を通して「YESマン」傾向を強めた。これは素晴らしい能力だったが、教師になった時の苦労にもつながっていた。

「NO」ということに抵抗があったり、こちらの意図に近づけるように交渉することが下手で失敗もした。

 

けれど、主夫としての日常は娘と息子が常時マシンガンのように自己主張してくるわけで。「NO」を通す力がなければ生活は破綻するわけで。彼らは無条件に欲求を通し続けていれば満足するわけでもないわけで。

 

結果、僕の中には「NO」及び「こちらの意も通そうと交渉する」という回路が作られるに至ったわけである。

 

 

他にも色んな能力が発達している。

 

例えば平面・空間図形。

 

例えば裁縫。

 

例えば調理。

 

あんなにも学校にいた時は強い苦手意識を抱いていたのに。

気がつけば、まぁまぁできる感覚を身につけている。

 

子どもと過ごす日々は、人生二週目だなってよく思う。

一度通り過ぎたものと、もう一度子どもを通して出会うから。

そして、当たり前だけど子ども時代とは違う反応が僕の中には起こっている。

 

変わる自分の中の教育観

焦る必要はないのかもしれないと思う。

 

だって、学童期に受けた教育や経験が、今楔となって芽を出して来ていると感じているから。

 

あの時は苦手だった。苦手ではダメだと思っていた。全てできるようにならなくてはいけないんだと思っていた。

 

けど、あの時苦手だったから、今この瞬間の自分の急激に開拓されていく能力に快感を感じる。

まるで別人だと感じるほど、強い自己主張をする瞬間を持ち、強い変化を実感する。

 

「教育」って、目のくらむようなロングスパンで見ないとわからない意味があるんだなとわかった。

 

それは、教育を受ける中で「失敗」「苦い体験」をした、「嫌い」なものが、年を経てから裏返って、小さい成功なのに「自分の中の大成功」になり、「大好き」になり、「自信」を生む結果につながるということだ。

 

僕たちの「学び」は学生時代では終わらない。生きている限りずっと続く。

 

だから、「今この瞬間にわからせる」こと、「今この瞬間にわかる」ことだけを追い求めれば、後の伸びしろは消えてしまう。

 

その人の人生における「タイミング」が来たときにおこる急激な上昇体験を失わせてしまうのではないか。

 

それってどうなんだろう。

 

子ども達を見ていて、いつも思う。

 

「この子達は僕とは全然違う。」

 

娘の大人や年上といったものを気にせずガンガン交渉する様には圧倒される。

息子の圧倒的鯨飲力には驚かされるばかりで、提供した食事を3秒後に消す姿はまさにマジック。

 

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きっと、彼らは僕とは全く別のアプローチで、それぞれのタイミングで物事を「勝手に」学んでいくんだろうなと思う。

 

そう考えると、自分のとれる子どものための教育観が変わってくる気がした。

 

僕が感じているこの感覚は、「主夫」という立場になり、「子育て」を通して、自分の人生を再構築しているから得られているものだ。

 

めちゃくちゃ忙しいが、この期間には遊びと学びと暮らしと、働くことがともにある。

 

この期間が、そしてこの期間が教えてくれた「学ぶ」ことの意味が、僕の人生や今後の仕事をもっともっと面白くしてくれるという予感がある。

 

この先、子どもが幼稚園に入ったり、小学校に入ったりして人生の比重は「働く」に傾いていくが、そこに今のような「遊ぶ」「学ぶ」「暮らす」のリンクがないのはひどく味気ないし、つまらないように思う。

 

子どものためのもう一つの「学びのアプローチ」

それは、社会に出た後、学び・遊び・暮らし・働くことを見直すことのできる場所をつくることだと僕は思う。

 

主夫の育児の期間というのはまさにそれで、幼児・子どもと深く関わるという経験は、愛情やぬくもりと共に、自分を見直し、再構築・再発見する機会を与えてくれた。

 

こうした機会は、もっと男性にも、育児に関わらずとも、開かれて欲しいなとも思う。

 

とりもなおさず、自分が学んで、試して、経験する。親であり自らを「大人」と呼ぶ僕らが、もう一度学び直せる社会。世代を超えて学び合える。

 

やれ高等教育だーとか、そんな高度で高尚なものでなくても構わないと思う。

 

0歳から22歳に学びの全てを背負わせるのではなく、ゆる〜く「100歳まであるし、ぼちぼちいこうや兄弟。」と気長に構えられるような、そんなスタンスを取りたいと思う。

 

子どもをめちゃくちゃ勉強させる!子どもの教育を変える!っていう方向性ではなく、

 

大人になってもゆるくとも長く勉強する。それができる場を作っていくという方向性。

 

前者の教育改革は勿論重要だけど、限界がある。

それよりも、受けてきた教育経験が後になって活きるように、働きながらでも学べる、暮らしながらでも学べる環境が必要だと思う。

 

大人がゆるくながく勉強したり、試したり、遊んだり、働いたりできる場や環境、文化を作る。そのために、自分のできるアプローチをこれからしていこうと思う。

 

言うは易く、行うは難し。できることをできる範囲で。

と、最後に随分大きく広げたものの、でっかいことをでっかくするつもりはないのです。

 

けど、個人としてできること、個人だから持続可能な活動があるなと思っていて、個人としての活動を、人とつながり協力しながらしていくつもりです。

 

僕の状況で今できることは、

主夫として子どもと生活する中で感じたことを発信すること。

主夫・親として地域の「場づくり」を行うこと。

ライフサイクル、自分自身の再調整・パートナーシップに関する支援を出店やワークショップなど行っていくこと。

  

これらを、少しずつできる範囲で続けていこうと思いますので、今後ともよろしくお願いします♪

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3月、4月も鳥取に出店予定です♪詳細後日お知らせします!