母親である友と旦那さん、そして男性である僕と。
2018年はどんな一年だったか。
「友達が欲しい。」
はっきり言って、これに尽きた。
4月から引っ越しした先での、家事育児生活。
どこに行っても他に主夫をしているパパさんなどおらず、
同じような立場で頑張るママさんたちの居場所に子供と共に顔をだしまくった。
近所の公園、児童館、母親サークル、プレ幼稚園、県外の子育てコミュニティ…
「毎日顔を合わせて、自然と友達になる。」そんな夢を見ていた。
けど、毎日子供を連れて行き、顔を合わせるような場所は近くになかった。
出会う人はみんな好意的だった。「パパなのにすごいですね!」とみんな言ってくれた。でも、いっぱいいっぱいだった僕がしたかったのは「パパ奮闘話」ではなく、「僕の話」だった。
子どもの話ではなく、パパの家事話でもなく、
僕の話ができる人。最近草木染めにはまっている、とか。
そんなバカな話が何の遠慮もなくできて、
「またそんなことばっかりいってるんでしょ?」
と屈託なく突っ込んでくれるような、友達が欲しかった。
慣れない家事育児に内から湧き上がって外に膜を張るような疎外感。
毎日深夜に電柱に頭を打ち付けて叫びだしたいような衝動を抱える日々。
ただただ、友達が欲しかった。
孤独と、そうでないことの違い。
けれど、ある時一人、「パパとして育児を頑張っている変わった人」ではなく、「みーちゃん、ゆーくんのパパ」ではなく、僕個人として関わってくれる人が現れた。
孤独感に苛まれて、一人いたたまれなくなって、隅っこで子供たちと遊んでいたあの時、他の人に声をかけてまでフェンス越しに寄ってきてくれたあの瞬間。
確かに僕は救われていた。
わざわざ「近くを通ったから、いるかなと思って。」と、話しかけにきてくれたこと。
それがどれだけの救いだったか。
孤独というのは、0だ。
孤独ではないというのは、1以上の全数字だ。
そこには大きな隔たりがある。
0から1になった瞬間に、大幅に世界は書きかわる。他者と交わる世界が増え、「友」と言える人が急速に増えていく。
だから、その楔になった「一人」がとても大事なのだと思う。
孤独感にどっぷり浸かった世界から僕を掬い上げてくれる友達に、僕は出会えた。
そこからは疎外感の膜は消え、いや、そんなものはどうでもよくなり、顔をあげて人と関われるようになり、友達関係が構築できるようになってきた。
でも、もどかしいのだ。
友情を示したいと思う。助けになりたいと思う。気軽に話したいと思う。
けど、その大事な友達は「ママ」なのだ。
パパにとってのママの友達のパパ。
気軽に電話をかけたり、ちょっと公園で会いましょうと言ったり、子供たちを連れて遠出したり。
そんなことをし続ければ、相手の「パパさん」にとっては目障りな存在になって、家庭不和を招きかねない。
すると、一歩引いて接しなければいけなくなる。
家に入るなんてとんでもないことは当然するわけもなく、門の中にも入らない。
子供たちは庭に入っても、僕は庭にも入らない。パパさんにとって嫌だとわかっているし、人の目で相手に余計な誤解の目を与えたくないからだ。
そんなに気をつかうならそもそも「会うのやめろよ」というところなのだが、せっかく得た友達。よほどの事態にならなければ、なんとか関係は維持したいというのが僕の本心。
確かに、仕事に長時間拘束され、日夜家族のために粉骨砕身しているパパの立場からすれば、はっきり言って僕のような「パパ友」は目障り千万だろうと思うのだ。
自分が仕事に言っている間、見れない可愛い我が子と遊び、不足しているパパ分を「別のパパ」に補充され、自分の大切なパートナーと談笑され、仕事から帰ったら「今日も◯◯ちゃんと◯◯ちゃんのパパと遊んだの!」などと楽しそうに話される。
不愉快極まる。
大体、他にいーーーーーーーっぱいママ&同い年の子がいるんだから、男なのに仕事いかんで子育てしてるパパなんて無視して、他のママ友と仲良くせいや!
と思うだろう。至極当然。その通り。
でも、そんなこと言えるはずもない。だから、不満を言葉にせず、押し黙る。不機嫌にさせてしまう。そして、それは家庭にとってあまりいい影響を与えない。
僕にとって、それは望むところではない。
書いていて、思う。僕と「友」となって親しくしてくれるということには「メリット」はないのだ。それは、家庭にとってのリスクであり、世間体的にもリスクである。
でも、それを知りながらも距離を置かずに付き合ってくれる。
それが僕には嬉しい。とてつもなく、嬉しい。性別の違いがあっても、「あの人は友達だから」と言ってもらえることが。それがどれだけ得難いことか、僕は実感として知っている。
この友情に報いる方法を、僕はまだ知らない。
ずっと考えている。
僕はどうしたら報いることができるのだろう。
こんなこと言ったら「だからお前誰なんだよ。」と逆に憤慨されそうなので、決して伝えられないが、
あなたがパートナーとして選んだ人は、素晴らしい人ですと、ただただ僕は救われましたと、本当は伝えたい。
大丈夫、人として素晴らしいのであって、僕が女性として愛しているのは妻だけなので。
と伝えたい。
「なめんな」
と殴られそうだ。
考えながら書いていて気づいたこと。
ああ、そうか。
書いていて、気づいた。
僕は「なめんな!」と怒られるのが怖くて、強引にでも旦那さんに会いに行くのを避けている。
その旦那さんと仲良くできないんじゃないかと思って、それが怖くて、避けている。
明白にギクシャクした関係になったら、今のような関係が維持できないから。
やっぱり、会って「奥さんに救ってもらって、感謝しています。でも、僕はそういう対象として見る女性は妻以外いないのです」と率直に話して「なめんな!」と言われるべきなのだ。
そうしたら、すっきりするはずだ。なにより旦那さんが。「得体のしれない男」より、「なんか妻に感謝してるらしいなめた馬の骨」の方が、なんぼかマシだろう。意気投合できなくてもいいのだ。
そして、友人であるママさんと、その旦那さんと娘の大切な友達である子供たちに、自分の活動から渡せるメリットや、友情を惜しみなく注げばいいのだ。
以前に言われた。
「ママ友と仲良くなるなら、家族ぐるみで付き合わなきゃだね!」
そうしようと思っていたが、どうにもタイミングが合わなくて遅れてしまった。
タイミングを強引にでも合わせに行っていなかったのだ。
来年度、パパ講座とか、幼稚園の送り迎えのあるパパママ向けのコワーキングスペースづくりとか、キャリアカウンセリングの新しいワークとか、やりたいことがたくさんある。家族とのことも、子どものことも。
けど、これは2019年の最優先事項。忙しさにかまけて後回しにしていいことじゃない。
だって、2018年の自分を救ってくれた大切な友達と、その家庭のことだから。