『ご縁』を言い換えると。〜鳥取大丸出店中のとある1名様へのご報告とセッション後に起こることの紹介〜
久々に鳥取出店、行って参りました!
呼んでくださった方、ご一緒させてくださった方、来てくださった方、気にかけてくださった方…恐悦至極でございました。
…笑顔練習せい。
さて、表題の件です。
今回の出店中のセッションで出た、この組み合わせ。
「ご縁」×「他の言葉で置き換えると?」
このセッションと、この問いがずっと残り続けていました。
いや、忘れるんですけどね。
子どもが肘ついてご飯食べたり、1歳児がわざとおさじさんを落としたりして、
「あ゛あ゛?」
ってなったり、
息子が1日便秘になって、痛そうに夜うめいたり日中不機嫌だったりする様子に始終気を取られて・・・
「はよ便様来て・・・」
などとひたすら祈っていたりしていると。
けど、やっぱりセッションを通じて問いアンテナが立ってると、折に触れて考えるんですよ。
ということで、今日はセッションを受けてくださった方に向けて書きます♪
一週間ほど考えましたが、僕にとってしっくりくる「ご縁」の言い換え、見つかりました!
「ご縁」は苦手な言葉。
いや、苦手なんですよ。
この「縁」のような、明らかに反論の余地がない
「誰がどうみても大事にしないとダメでしょ!!!」という
100パーセント白に見える言葉。
しかも、ご丁寧に接頭語の「ご」まで付いているじゃないですか。
同じく近い言葉で言うと、「感謝」もそう。
「必ず感じなきゃ人に非ず!示さなくては人に非ず!」みたいな。
なんか、「えー…あんまり正直あんまり好きじゃない」って言うと
「え?大事だろ?え、皆大事にしてるだろ?
え、お前大事にしてないの?ご縁、感謝。
うっわーー、まじお前サイテーだな。」
って、なんか言われているような気がしてくる。
うん、すごい被害妄想。
でも、何かしてもらって「嬉しい!超感謝!」って時もあれば、「うわー、申し訳ないけど、ありがた迷惑だったかも…」って時もあるじゃないですか。
例えば、良かれと思って、ハロウィンに当家の幼児に向けて大量のジュースやお菓子を用意してくださったとする。
しかし、当家の幼児はお菓子を多量摂取すると気が触れたかのように泣き喚いたり、癇癪を起こすことがある(因果関係はもしかしたら無いのかもしれないけど)。
なので、善意からお菓子をくださったとしても、親心としては全然嬉しくないのです。
「子どもに見せる前に、一言僕に確認して欲しかった…」とか思っちゃう。
お菓子との付き合い方も慣れていかなきゃいけんし、避けられないからいいんですけど…
ですけど…。まだ折り合いが僕の中でついていないんです。
面目無い。
でも、そんな複雑な心中をして、「それでも善意でしてくれたんだから感謝せぇよ」というのはちと無理がある気がして。
「はいはい、ありがとありがと。」って口だけで言われたって嫌でしょうと。
「そういうこと考えるお前自身の人間ができてないのが問題なんじゃボケ!」
って言われているような気がしちゃうんですよ…。
本当にすごい被害妄想だ。
そんなこと言いながら、毎日子どもに何かしては、
「ありがとうは?」
って言っているんですけどね。
凄まじい自己矛盾。
あの娘の微妙な表情、たまらない。
と、まぁ本来美しいも何もない、何かを表す言葉である「感謝」にも、
僕自身の人生経験から色々くっついてきた垢や、不特定多数の人々のレッテルが沢山ついていて、なんか真正面に見れなかったりするわけですよ。
本当のところ、僕自身が「感謝」をどう考えているかも。
なんでそんなに「感謝」を強制される感覚が嫌いなのかも。
でも、そこに「他の言葉で置き換えると?」という問いを噛ませると、
くっついていた余計な垢が取れて、自分自身の捉え方がくっきりみえてきたから不思議です。
僕自身の「ご縁」に対する今までの捉え方
僕は嫌いなのです。
この「大事にせえよ!」と強制される感覚が。
だって、めちゃくちゃ大変じゃないですか?縁を大事にするのって。
僕の「大事にする」って、その瞬間の全力投球・全力集中だから、重いんですよ!
不義理をしないためにまめに連絡入れて、メールの返信をすぐして、来るもの全部、関わるもの全部に全力で意識を振り分けていたら…。
一週間で正気じゃなくなると思う、正直。
物理的に不可能。「ご縁を大事にする=全ての出会いに感謝!」は無理!
元々、結構目の前の相手や物、空間にいる人の感情に敏感な方で、「あーーー、目の前のものを気持ちを大事にせにゃならん。」と感じる方なので、目の前にあるもの以外に気を払うのは、難しい。
目の前の相手に、物事に、全力で集中したいんです。
なんたる不器用さ。
だから、全力で集中できる時以外は、ちょっと横に置いておきたいわけで。
大事にできる時に、大事に思ってるって伝えたいわけで。
そういう、器があまり大きくない人間なので、
「え?メールすぐ返信しなきゃだめじゃん?縁大事じゃん?不義理じゃん?」とか考えさせられるのが嫌なのです。
そんなのわかってんだよと。
だけど、正直自分の特性考えて悩みぬいた結果、その辺は割り切るしかないと最近ようやくわかってきて。だから「自分のできるタイミングで、できることをできる範囲でしよう」と決めたんです。
だから、その辺の時間感覚が自分とある程度合っていて、わかって気にしないで付き合ってくれる人を大事にするし、なるべく不義理が発生しないように出会い口から絞っていこうとしています。
沢山の人より、限られた人数を対象にする形式をとり、個人や少人数グループを中心にした、自分の得意で相手のプラスになる環境を作り出すことを常に意識する。
そういう僕にとって、「ご縁」とは別の言葉に置き換えると…
「結び目・つなぎ目」がしっくりきました。
何事も「合う時は合う。合わない時は合わない。」もの。
好不調の波も激しく、目の前のことだけに集中したいという門戸の狭い僕は特に顕著かもしれない。
しかし、お互いのタイミング、相性もある中で、奇遇にも合った。
その中で「合う」ことが続くと相手との関係は強くなる。
「今じゃないことは今しない。」でも、関係が維持できる。
そして、「今だと感じたことを今する」、「目の前のものに全力集中」することで出来ていくつながり。
それが僕にとっての「ご縁」です。
もしも今、タイミングや感覚が合わなくても、いつか合う時には、つながることができるかもしれない。
もしも合わないことが続いて離れてしまっても、また合う日が来るかもしれない。
本当に嫌だと感じたら、縁を、「結び目」を切ったって構わない。
だから、今合わないことに罪悪感を持つ必要はない。結ぶ部分はいつでも残しているから。
そう「縁」を捉えると、僕は日々に集中していられる。
心が痛まないで生きていられる。
だから、この言い換えがしっくりきました。
・・・僕がすっきりしてしまいました。
あのセッションの続きの、何かの参考になれば幸いです。
〜この言葉の置き換えの効果とは〜
⑴自分や慣習から来る思い込みに気づける。
「ご縁」には別に「絶対大事にしなきゃいけない!」わけではないし、「全ての人、全ての出会い」でもないし、強制力を持っているわけでもない。
でも、そう思い込んでいる自分がいて、嫌がっている自分がいることに気づくことができます。
⑵置き換えることで、自分にとってしっくりくる言葉になる。
自分にとって嫌じゃない、感覚的に合っているやり方・考え方は何か置き換え先を考えていくことで、自分自身の感覚に向き合い、自分の人生哲学に合った解釈に書き換えることができます。
⑶自分にフィットしたやり方・考え方で動けるようになる。
そうなると、言葉や経験への過剰反応がなくなって、自然に反応できるようになってきます。僕であれば、会いたい人のところに訪問して会えずとも、
「ああ、今日は会える日じゃなかったのか。じゃあまた今度でいいや。」
とあれこれ考えなくなりました。すごい変化だ。
〜〜20・30分のショートセッションの効果〜〜
ショートセッションの効果の大きい部分ってこんなところにあるように思います。
20分や30分そこらじゃ、当然セッションは完結しないんです。(形としては終わりますが。)
途中で終わった感がある。答えが出ずに余白があるような状態で、終わる。
でも、20分や30分の間に、何かひっかかる。
この引っかかりが「問い」であったりする。
今回は、「縁ってなんだろう」「縁という言葉をなんで嫌がっているんだろう」という問い。
この問いのアンテナが立つと、無意識に答えを探す状態になります。
そうしてアンテナが立った状態でしばらく生活すると、答えが含まれているような体験に高確率で出会うから不思議です。
ぜひ、またショートなセッションでアンテナ立てに来てください♪
2月に鳥取に出店できるかな・・・。また決まったらご連絡します♪