ゼロチチ!〜0から父親になろう〜

2児の子育てに奔走する新米パパの家庭進出ブログです。

自分のやりたいことと夫婦時間の関係。

前々回こんな記事を書いた。 

 

あれから一ヶ月あまり。

 

最近全く踊っていない。

 

まずい。

Wiiを起動すれば、すかさずウィーボが

「やすゆきさん、久しぶりデスね!31日ぶりデスね!」

などという嫌味をかましてくること受け合いだ。

 

 

『ち、違うんだウィーボ…これには訳が…。』

 

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「言い訳はいいので、エクササイズをはじめまショウ!」

 

『い、いや、今日はブログを…』

 

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「言い訳はいいので、エクササイズをはじめまショウ!」

 

『だまれウィーボ!今日俺はブログを書くんだよ!!』


 

 

 

 

…というわけで、今日は「自分のやりたいこと」と夫婦の関係についてです。

 

 子育て中「やりたいこと」は増える一方で、夫婦の時間は減る。減らしていく方向に心が動いてしまう。

ざっくり言うと、これが結論です。

 

家事育児を中心的に担うようになって半年。

子どもを色んな所に連れて行くようになって気づいた子育てのメリットとして、

 

⑴子どもと共にもう一度再体験できる。

⑵子どもと共に新しい世界に出会うことができる。

⑶バイタリティー溢れるお母様方との出会いで、刺激を受ける。

 

といったことがあると知った。

 

これが面白い。

 

思えば、基本的に高校以降は自分の生きていく方向を定めて、専門分野の知識や経験を深めていく、言って見れば「生きる幅や範囲を限定していく期間」だった。

 

しかし、子育てというのは、子どもの可能性や体験の幅を広げるために、色んなことをする。

 

経験の中で自分が全くしてこなかったことや、しなくなったことを経験させてくれる。

 

例えばこれ。

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ピアニカ。

 

小学校では楽器の扱いが下手で下手で。

リコーダーはドの音が出せないし、指は両手同じ動きしか出来ないし…一生楽器なんて触らないと思っていた。

 

けど、遊びにいったプレーパークでお母さん達がピアニカを吹いていて、子どもが欲しがったから買ってみて、一緒に触ったり音を出していると…

 

ちゃんとしなきゃという気負いが無いせいなのか、

 

とりあえずチューブを振り回している子どもという比較対象のせいでハードルが極端に下がっているせいなのか…

 

楽しいし、なんか意外と出来てる気がする!!!

 

少なくと3歳の子どもより出来てる!!!

 

 

そんなこんなで自分も「大人のピアニカ」を買って、三人で芝生の広場で吹きに行く。

 

昔ハマった映画『耳をすませば』のカントリーロードを思い出しながら、一音一音記憶を探しながら吹こうとしてみる。少しだけ和音を入れてみる。

 

一歩一歩の進歩が楽しい。

 

何これ、もっとやりたい!!!

 

と、親の方がよっぽど興味を持ってしまうことが高頻度で、ある。

 

しかも、保護者側の「やりたい!」は子ども優先の状況では「やりたいけど十分にはできない!」となり、制限・抑圧されるため、結構強烈な衝動が心の内側に溜まってくる。

 

これが発露されると、強力な行動力となって深夜現れる。

 

 

例えば僕で言えば、最もハマったのは「足踏みミシン」である。

夜な夜な布を裁断し、糸と布をいじくり回す。

 

何も計画せずに、とりあえず衝動的に動かす。

そして、なんとはなしに

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人形の服が作れるようになっている。

 

 

しかし、「自分のやりたいことが増える」のは、決してプラスにばかり働くとは限らない。

 

強烈な「ミシンが踏みたいいいいいいいいいいぁぁああああああ!!!」という欲求は、容易に「今日もエクササイズしまショウ!」というウィーボの誘いをあしらい、僕をミシンの前に連れて行こうとする。 

 

 ウィーボの誘いよりもミシンを優先するということは、とりもなおさず

 

夫婦の時間よりも自分の時間を優先するということである。 

 

夫婦で観るドラマの時間よりも、一人でミシンを動かす時間の方が衝動的に大事になってくるというのだ。

 

これによって何が犠牲になるのか。

 

例えば、子どもを寝かしつけ終わった深夜の時間。

 

同じ医療ドラマを観て、

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「俺、明日歯医者さんに『先生もインパクトファクター欲しいんですか?』って聞いてみようかな。」

 

「まぁ大学病院の話だから。っていうかドラマだから。」

 

などという他愛ない会話をしていたわけだ。

 

他愛はないが、同じものを観て、会話の種を仕込む実は時間でもある。

 

それがなくなる。

 

 

いや、いきなりなくなるわけではない。一緒にドラマを見たりは、やはりする。

けれど、どこかうわの空になる。

 

スナイプが挿入されるシーンを見ながら、

 

「あーーーー、ミシン針に糸を通してぇ。」

 

などという雑念が湧いてしまうわけである。

 

一緒にドラマを観ている人間は、鋭い。どこか集中できていないことには、気づく。

そしてそうした微妙なすれ違いが繰り返され、共時的話題が減っていくことにつながっていきかねない。

 

つまり、少し大げさに言うと「やりたい」という個人的欲求は、自分の世界に自己を没頭させるため、自分を家族から切り離そうとし、遠ざけようとし、一人にしていく傾向もあるということだ。

 

この記事の下書きを読んだ妻は、「まぁ私はそんなに気にしてないけどね」と言っていた。

 

けど、このことに気づかずに何も手を打たないでいると、

 

夫婦の間を結びつける夫婦の時間は減少し、それぞれの一人の時間が増加して、どこか疎遠になり、子育ての「イズム」のぶつかり合いでお互いの意見が割れるばかりで、ますます一人の時間が楽しくなり、いっそのことパートナーのことなどはっきり言ってどうでもよくなってくる…。

 

僕自身は夫婦にはそれぞれの価値観があり、相性や様々な出来事、転機もあるので夫婦関係を継続することが必ずしもベストだとは思っていない。

 

けれど、お互いが一緒に生きていこうという意志があったにも関わらず、いつの間にかその気力を互いになくしてしまうことは怖いことだと思う。

 

そして、この子育て中に膨れあがる「自分のやりたいこと」への衝動は、そうしたことにつながっていく危うさも孕んでいると、そんな気がするのだ。

 

だからこそ、自分のやりたいこと、夫婦で大切にしたいことや夫婦の時間でしたいこと、そして子どもを含めた家族でしたいこと、家族で担わなければならない家事やお金を稼ぐ生業のこと、そうしたことにはメンテナンス・チューニングが必要だ。

 

特に、家族が増えて考え方や生活リズムが激変する出産後の子育て期においては。

 

でも、それは当事者同士だけでは難しい。

 

自分と、パートナーと、家族や関わる人達と、調和で良いサイクルの維持するための相談をする場所、専門家。そうしたものが本当はもっと必要だ。

 

そうしたサービスを必要としている人達に自分という個人がどうアクセスして、どうサポートしていくか、それが課題。

 

 

『ウィーボ…だから俺にはやらなくちゃいけないことがあるんだ。』

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いいからエクササイズしまショウ!」

 

そうだな、ウィーボ。まずは自分の家庭から。

 

今日は一踊りしてから寝るとしようか。