ゼロチチ!〜0から父親になろう〜

2児の子育てに奔走する新米パパの家庭進出ブログです。

天女と生活。不機嫌ベースで考える。

 今回はこちらの記事の続きです。

いきなりですが、家庭生活シミュレーションゲーム

  

帰宅早々、家事育児で疲弊した夫がいる。

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さあどうする?

 

⑴「今日も一日、本当にありがとう!」と笑顔で感謝を述べる。

 

⑵「何かあったの?」と気遣うように声をかける。

 

⑶「そんな顔は、君には似合わないぞ。」と抱き寄せる。

 

結果

⑴「感謝してるならもっと早く帰ってきてほしいし、いますぐ子供の面倒をみてほしいんだけど。」と仏頂面で言われる。

 

⑵「別に。いつも通りご飯を投げたり眠くてぐずってたりしただけ。」と目も合わせず言われる。

 

⑶「じゃあどんな顔しろってんだよ!?」と思いっきり弾き飛ばされる。

 

なんというムリゲー。

選択肢を全部試してみても、徒労感しか得られない。

どれを選んでもダメなのである。

夫は笑顔にならない。

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しかし、これが現実。

これがこそが真のリアル家庭生活シミュレーションなのである。

 

「いつも笑顔でいてほしい」という言葉に潜む暴力性

以前、妻が育休で主婦をしていた時に、僕がよく言っていた言葉を思い出す。


「君に笑顔でいて欲しいから」

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キリッ

 

終業後すぐに帰り、子どもを外に連れ出して遊び、寝かしつけた後に洗い物をして、洗濯物を畳む。 


しかし、いくら頑張っても妻の不機嫌モード突入は回避出来なかった。


そしてある日言われた。


「ごめん、笑顔でいてって言われても、できないからしんどい。そう言われるのが、すごく嫌なの。」

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まさかの逆効果。

 

あの時、僕は妻の気持ちが全く理解できていなかった。

けど、今はよくわかる。

 


いくら頑張ってもらっても、常時笑顔でなんていられるわけがないのだ。

 


例えば、朝起きて残してしまっていた洗い物を処理しておいてくれたとする。

 

それでも朝ご飯を食べさせている最中、息子が制止の声を無視して味噌汁の具のタマネギを二回床に投げただけで、もうアウトだ。

 


例えば一日一人時間をもらって、リフレッシュしたとする。

 

それでも翌日、車の中で娘が数日前に食べたアンパンマングミの袋を見つけ、食べたい食べたいと駄々を10分こねただけで、もうアウトなのだ。

 


1日かけたスッキリも、10分で帳消しになる。

それが休むことなく続く、生活の超パワーである。

 


そんな生活の中にいる相手に「笑顔でいて欲しい・・・」と迫るのは、

暴力的ですらあると今は思う。

 

全然ダメだよこのセリフ。

さらにだ。前回の記事で不機嫌モードの心の叫びには三種類あると分析した。


⑴こんなに疲弊するほど頑張っている自分を認めて欲しいという承認欲求。

⑵本当の自分は、こんな自分じゃないとわかってると言って欲しいという理解欲求。

⑶こんなみっともない自分でも愛して欲しいという愛情欲求。

 


この三つを押さえた上で「君には笑顔でいてほしいから」という先の台詞を考えてみてほしい。

 


恐ろしいことにこの三つの欲求を、どれ一つとして満たしていないではないか!

 


⑴頑張っている私を認めるどころか、「おいおい、笑顔でいてくれよ!と更に難しい要求を突きつけている。オロローン。

 


⑵「いつも笑顔の君が本当の君だよ!」誰ですか・・・それ。それは本当の私ではなく、理想化された存在しない私では?グガガー。

 

 

 

⑶「不機嫌モードの君は、君じゃない!笑顔の君に戻れ!」

グガガガガー。

 


「相手にはいつも笑顔でいてほしい」は、相手の幸せを願う気遣いから来る言葉ではある。けれど、本人の望みとはどうしてもズレてしまう。

 

 


じゃあ、どういうマインドを持っていったらいいのか。

 


それはまず、生活の前には我々はあまりにも無力だと知ることから始まる。

 

そして、それ故に「不機嫌でもしゃーない」と諦め、不機嫌ベースで関わりを考えるが重要になる。

 


「笑顔の妻(夫)」から「不機嫌妻(夫)」への認識転換が必要である。

 

 

「と、到底容認できん!!!」と思った方には、是非永瀬清子さんの次の詩を読んで頂きたい。

 

諸国の天女

 


諸国の天女は漁夫や猟人を夫として

 
いつも忘れ得ず思つてゐる、底なき天を翔けた日を。


人の世のたつきのあはれないとなみ


やすむひまなきあした夕べに


わが忘れぬ喜びを人は知らない。


井の水を汲めばその中に天の光がしたたつてゐる


花咲けば花の中にかの日の天の着物がそよぐ。

 
雨と風とがささやくあこがれ


我が子に唄へばそらんじて何を意味するとか思ふのだらう。


せめてぬるめる春の波間に


或る日はかづきつ嘆かへば


涙はからき潮にまじり


空ははるかに金のひかり


ああ遠い山々をすぎゆく雲に


わが分身の乗りゆく姿


さあれかの水蒸気みどりの方へ


いつの日か去る日もあらば 


いかに嘆かんわが人々は


きづなは地にあこがれは空に


うつくしい樹木にみちた岸辺や谷間で

 
いつか年月のまにまに

 
冬過ぎて春来て諸国の天女も老いる。

 

現在の若い女性の多くは、この「天女」である。

(我が妻が夫としたのは「天男」なのである!)

 


生活から縁遠く、清潔で美しく、夢を持ち、人のために働くのを善美と教育されて育った彼女達にとって、子育てと生活は麗しい想像とかけ離れた、汚れにまみれ地を這う日常である。

 


そんな中、生活に塗れる前をどうしても思い、自分が空を舞うように仕事をし、自己実現をして輝く姿への憧れを捨てることが出来ないからこそ、不機嫌度は増すのである。

 


僕らの母や祖母達の世代は、「地に足をつけて生きる」ことを良しとする価値観の中で育ち、生きた世代である。比較してはいけない。生活力も、心のベースも、生きて来た環境も違う。

 


あなたの妻が天女なら

きずな(生活)とあこがれの狭間で彼女は嘆いている。


それをわかって尚、「うちの嫁さんは天女なんじゃあー、いつも笑っていられるはずなんじゃあー」と言えるだろうか。 きっと言えないだろう。

 

笑顔をベースにではなく、不機嫌をベースに考える。

 

では、この発想転換を受け入れた上で、

夫婦はどう関わっていくのが良いのか。

 


またもや長くなったので、この続きはまた次回に。