ゼロチチ!〜0から父親になろう〜

2児の子育てに奔走する新米パパの家庭進出ブログです。

「無理めのやつ」である父親を考える。

「無理めのやつ」=選択肢を相手に与えるためのダミー、潰れ役。

最近息子と娘にとって、父はよく「無理めのやつ」である。

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画像:無理めのやつを提示された子どもの表情。

 

 

「無理めのやつ」とは、何か子どもにして欲しいことがあるときに提示するダミーの選択肢である。

 

例えば、就寝前に歯の仕上げ磨きをしたいときに用いられる。

「ねぇみいちゃん、歯磨きお父さんにしてもらいたい?それともお母さんにしてもらいたい?」

 

太字部分が「無理めのやつ」である。

この声かけを聞いたとき、選択肢が3つ生まれる。

 

A「歯磨きを拒否する。

B「歯磨きをお父さんにしてもらう。

C「歯磨きをお母さんにしてもらう。」

 

Aは確実に通らないと子どもも理解している「無理なやつ」である。しかし、提示すると選びかねないので提示しない。

Bは魅力的でない選択肢。95%こちらは選ばれないとわかっている「無理めのやつ」である。

Cが本命。子どもにとっても妥当で現実的な落ち着きどころとなる。

 

要するに「歯磨きするね?」という声かけだとA「嫌!ノーセンキュー!」を容易に誘発して厄介なので、もはや仕上げ磨きの実行を前提にして「父か母か」という選択肢を与えることによって、自分が選んだ気にさせるという詐術を用いているのである。

 

最近、「ママがいい!」を言われ慣れてきた僕は、ついにそれを逆用する術を覚えたということなのだ。

 

これが驚くほどはまり、子どもはスムーズに誘導されてくれる。

 

「これも『父親の役割』、つまるところ『潰れ役』をするということなのか」

と、何か一つの悟りを得た気分になった。

 

しかし、その策の驚くほどの効果に、僕は溺れていってしまったのである。

 

策士、策に溺れる。

「お父さんがする?それともお母さんにしてもらう?」の効力を知った僕は、ここぞとばかりにこれを使いまくった。

 

朝食の時、おでかけの時、トイレの時、お風呂の時、寝かしつけの時。

 

しかし、これを続けることで不味い効果が2つあったことを、僕は認識できていなかった。

 

一つは、「お父さんはつぶれ役、実行役はお母さん」という謎認識が僕の心の中に芽生え始めてしまったこと。

 

もう一つは、妻の怒りゲージが日に日に増大していたことだ。

 

どういうことか解説しよう。

この「答えのほぼ決まっている選択肢」は子どもに対してさせてほしいことを子どもが受け入れてくれるので、親としては楽なのだ。

 

そして、「お母さんがいい!」に慣れてきた父親にとって、この選択肢の提示は更に楽なのだ。

実際に歯磨きしたり、ご飯を食べさせたり、トイレトレーニングをしたり、実行する役をお母さんに丸投げ出来てしまいながらも「自分は潰れ役を請け負った」等と半端に役割をこなした気になれるので、心理的負担も皆無。

 

自分にとって一見なんのデメリットもない。

 

しかし、お母さんにとっては違う。子どもが納得しても、実際に仕上げ磨きをする作業はかなりの労力を要するのだ。

それなのに夫は毎回「自分は実行しなくてもいい楽な選択肢」を子どもに提示して、楽をして、役割をこなした気になって、あまつさえぬくぬくと布団に入って目をつぶっているのだ。

 

寒い中布団に入れず仕上げ磨きを頑張ってしている自分の横で、だ。

 

これが繰り返される。

 

正直「殺意」すら湧きかねないと思う。

 

我が妻は、ある日、全くの無表情で「・・・やって?」と歯ブラシを僕に渡すという大変マイルドな方法で僕にこの問題点を示唆してくれた。

 

殺意を抱く前に教えてくれたのである。

ありがたや。

 

「お母さんがいい!」の一歩先に。

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 歯ブラシを渡された。

「今日はお父さんが仕上げ磨きしたいんだけど、いい?」と言ってみる。

 

「お母さんがいいの!」と娘は言う。

 

「優しくするから、させてほしいな。」と食い下がる。

 

最初は嫌がりながらも、しぶしぶさせてくれる。

 

口を閉じたり、歯でブラシを噛んで動きを封じてきたりする。

お腹をつついたり、変な顔をしたりして応戦する。

 

「でへへへへ」 と二人笑う。

 

意外に、させてくれるのだ。

 

 

 

今回のことでわかったことがある。

やってみると、意外にお父さんでもオッケーなことは多い。

勿論そうじゃない日も結構あるのだが。

 

あの「お母さんがいい!」は、子どもの心にあらかじめプログラムされている自動反応なのだ。お母さんかお父さんかの選択肢を提示すればお母さんをほぼ選ぶ。

 

でも、「お父さんでもいい。」と受け入れるキャパシティが子どもにはあって、「お父さんも意外にいい!」は後天的に、経験として子どもは得ていくものなのかもしれない。

 

常に子どもから愛情を求められ、時に辟易し、拒絶やケンカを経ながらも関わり続けなくてはいけない立場にあるのが母親だとしたら、父親はどんな立場なのか。

ママがいい事件から自分に投げかけていた問いに、現時点での答えが出せそうだ。

 

常には子どもから愛情を求められなくとも、嫌がられながらも、時にそんな立場に辟易し、ケンカしながらも、関わるのを止めないのが父親。

 

「お母さんがいいの!!」と泣き喚く彼らの、「お父さんでもいいよ。」となる瞬間を、関わりながら粘りづよく待つ。来る日も来る日も、嫌がられながらも。

 

それが現時点での、僕の考える一つの理想の父親像だ。

 

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