バレンタインの策士。
今週のお題「バレンタインデー」
バレンタイン論争。
それは、母親・祖母・親族からのチョコを、もらったチョコレート数にカウントするか否かを巡る論争である。
僕は迷わず前者だ。小学生の頃から前者で貫いてきた。
僕が「2個もらったよ!」と言えば、それは母・祖母からの2個だということだ。
今年「5個もらったよ!」といえば、妻・母・義母・義祖母・義妹からそれぞれもらったということだ。
大体だ、肉親からのチョコをカウントしないなんていう奴は、一体どこのモテ男なのだと。自らの勇(チョコ獲得数)を誇るような愚かしい主張ではないか。
許せぬ。断固許せぬ。
・・・しかし待てよ。
思い返してみれば、僕の周りには「チョコ10個もらったぜ!」等と吹聴してまわる輩はいなかったように思う。
この世にそんな漫画みたいなモテ男はいないのか。
それとも真のモテ男は自分がチョコを大量にもらった事を誇るなんて愚かな真似はしないのか。そんなことをしても誰かが妬んだり傷ついたりするだけだとわかっているから・・・さすがモテ男だ。
夫婦のバレンタインデーの歴史。
バレンタインデーは、毎年妻がチョコをプレゼントしてくれていた。
生チョコなどの手作りの年もあれば、高級なチョコを買ってくれる年もあった。
二人のバレンタイデーの歴史は、まさに妻にとって試行錯誤、苦闘の歴史だったろうと思う。
僕の生家は煎餅屋だ。
甘いものはグミ以外ほとんど食べないような偏った嗜好の持ち主に育った。
レストランのビュッフェでも、デザートをとらないことがざらにある。
手作りしても高級チョコを贈っても同じような結果だった。
去年は僕が板チョコが好きだと言うから高級板チョコを贈ってくれた。
けどそれでも全て「美味しいね」という通り一遍の反応。
贈ってくれたことへの嬉しい気持ちがありつつも、目の輝きが伴わない。
僕の言う「美味しい」は彼女が高級チョコを食べた時に感じる「美味しい」とは違っている。
僕の感度が鈍すぎて、感動が共有できないのだ。
妻に毎年募る徒労感。
正直、逆の立場だったら何度かブチ切れて小一時間問い詰めていたと思う。
「コーラアップ食ってる時と同じ顔してんじゃねぇよ!!」
と。
いや、本当最低だと思う。
そして、妻は今年決断するに至った。
「チョコ贈与制度の廃止」
子育てに追われる中で、時間的にも経済的にも、チョコにそんなにコストをかけていられない。大体かけたところで大して喜ばない。だから・・・と妻が代替策として考案したのが、
娘と二人でクッキーを作って、みんなで食べる!
家族共有型イベントへの切り替えである。
娘が作ったクッキーだったらむせび泣きながら喜んですぐ食べるだろうという妻の目算。
完璧にヒット!父はこの上なく喜んで「美味しい!美味しい!」を連発。(なんだそれ。本当最低!)
更にこの策は大のお菓子好きである娘のメイキング魂に火を付けた。
その日の昼に県立図書館に二人ででかけた所、
「これ借りる!」とこの本を持ってきた。
・・・料理本コーナーがどこかも知らず、文字も読めんはずなのに。
なんて嗅覚!
というわけで
妻の経済的・時間的・食育的・教育的配慮から、当家バレンタイン政策は路線変更となり、それはかなり大当たりとなったのである。
変わっていくのも良し、でも寂しさも・・・。
家族構成が変わり、こうした行事も子供中心になっていく。
自分たちの状況によって、形を変えていく。
「こういうことも必要なんだろうな」
そう思いながら、妻からバレンタインのチョコが貰えないことに一抹の寂しさを覚えたりして…。
と思ったら次の日、冷蔵庫の中に、
妻の手作りチョコが。
策士すぎる。
チョコがなくなったことに身勝手にも寂しがるところまで想定していたというのか・・・。
あなたの完璧な心遣い、感動しました。ありがとう。
こうして振り返ってみると、バレンタインデー、いつも頑張ってくれてたなぁ。
育児で色んなイベントが子供中心になっていくなかで、それは今は仕方ないって思ってた。
けど、結婚記念日や誕生日、クリスマス、彼女みたいに変化の中で抱く寂しさにまで気を回す策士で、僕はいただろうか。
反省。ごめんね。