僕たち夫婦には食器洗いという家事が必要だ。
なぜ僕は食洗機を買えないのか。
数年前から夫婦の間で定期的に出るフレーズ。
それが「食洗機、欲しいね。」である。
大抵、「せめて食器乾燥機は欲しいな。」が後に続く。
そう、欲しくなるのだ。
夕飯を食べさせ終えて、疲弊しきった心身を自覚した夜、特に。
「もううんざり!顔も見たくない!」
と、食器に向かって言い放って放置すれば、次の日の朝にはより強固にこびりついた汚れで絶望を与えてくれるのを僕らは知っている。
出来ればこの食器洗い、乾燥、そして食器棚に戻すという一連の作業が我々夫婦の中から消え去って欲しいと心の底から願う時もある。
でも、買うまでには至らない。
そしてストップをかけるのは決まって僕なのである。
食洗機を導入すれば、一回一回の作業にかける時間は確実に短縮される。
それはストレス軽減につながるはずだ。
なのになぜ僕は買わないのだろう?
なんとなく、自分にストップをかけているものをはっきりさせたくて分析してみた。
結論は、
「食器洗いの時間が僕ら夫婦にとって必要だ。」
と、僕自身がうっすらと感じていたからだった。
僕らのケンカの発生率と食器洗いには相関関係がある。
結婚前、一緒に暮らし始めた頃から食器洗いはよく二人でしていた。
基本は妻が「食器洗い」、僕が「食器拭き&棚へしまう」という体制。
洗うのは妻が速く、拭くのは僕が速い。加えて、お互いその作業の方が「好み」だから自然とそうなっていった。(但し、役割交代はよくある。)
不思議なことだが、この食器洗いの家事を二人で行っている頻度が高い時は、ケンカが少ない。
しかし、一緒にではなく別々に行うことが多くなると、てきめんにケンカが増える。
片方が食器洗い、片方が子供の相手・風呂の準備や掃除でもダメなのだ。
あるいは片方が食器を洗い、時間差で食器を拭き・片づけるというのでもダメ。
「一緒に食器洗いという家事の時間を共有する」
ことが、どうやら僕らにとっては大事らしい。
食器を洗う時間の「共有」と「コミュニケーション」。
僕が妻に怒りだす最もよくあるシチュエーションは、
「早朝起き出して、一人で家事をこなした後、子供の夜泣きで疲れ切った妻が起きてくるのが遅くなった時」である。
これが考えてみると理不尽な怒りというか、矛盾したものなのだ。
日頃家事育児で疲弊する妻を回復させたいという思いで、張り切って家事をする。
食器洗い、洗濯物畳み、朝食作りを終え、起きてくる妻を待つ。
なかなか起きてこない。「7時半をまわった。起きてこないな。」
もう8時になる。「まだ寝てるのか?」
起きてきた。
「遅かったね、もうご飯できてるよ?まだ眠そうだよ?まだ寝る?」
何故かもうケンカ腰だ。
最初「妻のため」と考えていたのに、張り切った結果、いつのまにか
「俺はこんなに家事をして頑張ったのに、ゆっくり寝ていた挙句に感謝の言葉もないのか!」
という意味不明な不公平感に支配されている。
普段妻がやってくれていること自体を忘れたわけでもなく、
子供の夜泣きで寝不足で、多めに寝ても快眠に至らないから仕方ないことも理解している。
なのに怒る。
妻としてはやっとゆっくり寝れたと思ったのに、起き抜けに抜群の不快感を与えられるのだからたまらない。
これは恐らく、『自分のしてあげたこと』を『してもらったこと』の35倍覚えているという例の法則が発動しているからだろうと思う。
(気になる人は次のリンクをどうぞ)
この法則は、家庭生活において危険極まりなく、僕もよくこの罠にはまる。
しかし、食器洗いを一緒にしている時は作業を「共有」できているので、不公平感を持たない。
妻も僕も一緒に家事をしているという実感が、この罠から僕らを救いだしてくれる。
そしてより大事なのは、
食器洗いの時間は普段お互いが思っていることを語り合う「コミュニケーション」の時間になっているということ。
食器洗いはつれづれな家事だ。テレビもなく、ただ目の前の手を動かすだけ。
だからこそ、二人でやっていると会話が生まれる。
今日お互いに起こったことや明日の天気、気になるニュースについてという当たり障りない話に始まり、
最近の子供の成長、悩みといったちょっと踏み込んだ内容になり、
これから1ヶ月先、1年先、3年先、10年先、50代60代にお互いなった時どうありたいか等、未来に関しての話題に及ぶこともある。
子供が寝静まってからの20分〜30分。
何故か話が弾む。心が通いあっていると感じる。
ドライブ中より、テレビを見ながら黙々と二人で洗濯物を畳んでいる時より、食事時の会話よりも。
日々の単調な作業の繰り返しという「生活」の一部を共有し、その「生活」の中で感じていることを互いに話し、未来についてのビジョンを「共有できた」と確かに実感できたからなのだろうか。
家事の持つ可能性。
こうしたことを肌で感じていたから、僕はその「食器洗い」の時間を短縮したり、消滅させる「食洗機」を導入することに抵抗があるのだと思います。
「食洗機」を買う人、使っている人を非難しようというのでは決してないのです。
僕が今考えているのは、
何かの家事という作業を「一緒にする」という行為は、夫婦の心をつなぐ可能性があるんじゃないかということ。
それは料理でも、部屋の掃除でも、洗濯物を干したり、畳んだりすることでも構わないのだと思います。
(ちなみにうちは料理を一緒にするとやり方の違いが顕著にでるのでまだダメです笑)
家事が省力化されていけば、作業自体は一人で十分可能になる。
けど、家事の分担は時に不公平感の罠にはまる。
だから、ある家事の分野においては、あえて家電による省力化を避けてみるのもありなのかもしれません。
ちょっと一人でやるにはボリュームがある家事を二人で、または子供を含めてやってみる習慣を作る。
ちょっと家事の扱い方を変えることで、家族や夫婦の結びつきちょっとずつ強くなる。
そんな家事の可能性を、「食洗機」を今は買わずに考え続けていこうと思います。
なので、皆さんの家での「共有家事」やご意見、是非教えてくださいね。
**パートナーセッションやZOOMによる継続セッションも始めました。**