【年末年始の過ごし方】世代をまたいで思いっきり遊ぶ!
家族、親族、友人、その家族、皆で遊ぶのは楽しい。
妻の実家は最寄り駅まで車で30分以上かかるという、曰く「陸の孤島」。
畑も田んぼも川も森も竹林もあり、猫も犬もいる自然豊かな「THE・田舎」。
僕はこの場所が大好きだ。
「本家」として年末年始やお盆には親類が多く集まる。
でもこの先、この場所が今のようにみんなで集えて、遠くても訪れたい「みんなの故郷」でいるためには、今から僕たちの世代とその子世代がここに集まりたいと思うような関係、記憶づくりをしていかないといけないんじゃないかと考えている。
この「本家」に来るのは親族の方にとって楽ではない。
実の親子関係や兄弟関係があるならいいが、その子まで行くと「遠いから行きたくない」と感じてしまうのではないかと思う。
ただでさえ、子どもにとっての親戚づきあいは疎ましく感じがちなものだ。
飲み食いして「元気か?大きくなったな!」「宿題は終わったのか?」と言われるだけならお年玉だけもらって即退散したいと、僕なら思う。
数時間かけて来て、1泊して、楽しくもないで気を遣うだけ。
そんな記憶が積み重なれば、縁はどんどん遠くてなるだろう。
せっかくの親族なのに、そんなの寂しい!
せっかくの年末年始なのに、そんなの楽しくない!
という思いもあり、単純に遊ぶことが大好きでもある僕は、親類が集まった時にはとにかく子どもと遊びまくること、あわよくば世代をまたいで遊ぶことを大事にしている。
というわけで今年は…
1月2日午後2時に妻の母方の叔父家族が来訪。
年始の挨拶をして久闊を叙す。
しかしすぐにあるブツがはやく来ないかとそわそわしていた。
午後3時頃、妻の友人宅からニンテンドー64及び大乱闘スマッシュブラザーズが運び込まれる。一緒に妻の友人宅ボーイズもあがってくる。
さぁ、遊びの時間のスタートだ!!
2才児〜32才が狂ったように遊び、50〜80才が苦笑いしながら見守る。
ちなみに2歳児の娘は父親である僕のコントローラーのスタートボタンを押してゲームをストップさせる遊びを始める。
冗談ではない、これは真剣勝負なのだと大人げなく憤慨する父。
ゲラゲラ笑う娘。
気がつけば従兄弟達と面識0の妻の友人宅ボーイズが仲良く協力プレイをしている。
そしてそやつらを容赦なく蹂躙する30代の猛者達。
大人気ない大人達への、少年達の惜しみない「強すぎw」
という賞賛の声。
午後五時には一旦お開き。 64は友人宅へ退場。その後は…
夕飯には焼肉&すき焼きで食事を楽しみながら語らう。
テレビを見たり乳幼児を寝かしつけたり、風呂に入ったり寝る準備を整えたりしたあと…
モノポリー登場。
参加者は12才、18才、29才、32才、50才代の5名。(銀行員1名、31才)
繰り広げられる骨肉の争い。
そして時折みせる骨肉の親。
深夜2時、勝者を残して全員破産。
熱戦は4時間に及んだ。
熱くなりすぎてプレイ後寝付けない者多数。
(ちなみに最初に破産したのは唯一の経験者であるこの僕である。涼しい顔して解説してたけど、超悔しかった。超悔しかった。)
翌日は後遺症で参加者全員寝不足。
重い体を引きずりながら、近所の空き地でソリ、雪だるま、雪合戦。
睡眠不足とは無縁の若人達。ソリが楽しかった様子。タフだ。
雪遊びの後は昼ごはんにして、少し休んで…
再びモノポリー。
いとこ達が帰るまで1時間弱しか残されていないため、今回は1時間の時間制限バージョン。圧倒的なスピード感。まさに別ゲーである。
この後、いとこを見送ったあとは、モノポリーの間待っていた娘と屋内ジャングルジムでぐるぐるおいかけっこに興じる。
翌日朝の、見事な雪景色。
しかし撮影者の体が遊び疲れと治らない咳風邪でボロボロのためか、どこか影のある写真である。
一緒に思いっきり遊ぶことは、会話を超える心の交流になる。
遊ぶことに目的はない。ただ遊びたいという衝動に任せて遊ぶものだ。
だから、相手と「心の距離を近づけたいから」などという野暮な目的意識から遊びはじめるものではない。
しかし、遊ぶことは結果として、ほんの短い時間で「私はこんな人間ですよ」と深く伝えあうことになる。
「最近悩みはないのか?学校はどうだ?」
というちょっと距離感のある会話よりも、全力で遊ぶほうがはるかに相手の人柄の一部に触れられると思うのだ。
年に1〜2回、下手したら数年に1回の顔合わせの関係だからこそ
親族の付き合いというのは、近くて遠い。
年に1回顔を合わせるぐらいだと、
「久しぶり!背伸びた!?」
「雰囲気変わったねー!元気にしてた?」
のあと、2・3言で気まずさが漂っってしまうこともある。
だからこそ、こういった関係では飲んだり食べたり話したりもいいけど、
僕はやっぱり遊びたい。
遊ぶことを大事にしたい。
そして、色んな遊びをしたい。
屋外でも屋内でも、頭を使うものでも、身体感覚を用いるものでも…。
一つの種類の遊びでは、全員は関われないし、面白いと感じるメンバーも固定されてしまう。
80歳のおばあちゃんは64のコントローラーを基本的に握りたがりはしない。
たとえ握ったとしても、僕はおばあちゃんの操るピカチュウに笑ってメテオスマッシュなどできやしない。
(でも、おばあちゃんが瞬く間にピカチュウの電光石火を使いこなしたら、最高に盛り上がると思う。)
2歳児はモノポリーを、サイコロどころか家やホテルや駒、紙幣すらも投げて遊ぶものだと解釈する。(まさに別ゲー。)
誰もがどこかで「めっちゃ楽しい!」状態になるために、遊びのレパートリーは必要だ。
また来たい、また会いたい。
そう思いあう関係を作るには、遊びがもってこいであり、良き遊び人が必要だ。
僕はこれからもひたすら遊び人になろうと思う。遊ぶのって楽しいから。
そして80歳で12歳の少年をあらゆる遊びで蹂躙するファンキーなじいちゃんになりたい。
最近ちょっと「遊びの力」が軽視されている気がするので、ぜひその力を思い出して「全力で遊ぶ楽しさ」を皆様に味わってほしい。