ゼロチチ!〜0から父親になろう〜

2児の子育てに奔走する新米パパの家庭進出ブログです。

《主夫育児を通じて気づくこと-後編》遊びと学びと働くと暮らしがめぐる育児期間。

子どもとの暮らしが押し進める僕自身の発達。

主夫として子どもと一緒に過ごすようになって、「めちゃくちゃ発達したな」と思う部分がいくつもある。

 

まず一番にあがるのは、「交渉力」。

幼児の主張力はもの凄まじい。心の中に浮かび上がった欲求を時と場所を選ばずぶつけてくる。

 

 例えば車での走行中、7の看板を視認し次第娘は口を開いた。

 

 

*********************** 

娘「おとうさん、アンパンマングミ買うっていうのはどぉ?

お店を意識し次第とりあえず言ってみるなど、浅はかな。

むしろオートで逐一言ってくるほうが断るのは容易いのだとなぜわからん。

 

父「グミ美味しいよねー。お父さんも食べたいわー。しかしだ、母親サークルに遅刻が確定したこの状況で、さらにコンビニに寄るのは致しかねるね。」 

と返答する。

 

娘「じゃあ帰りに買うっていうのはどぉ〜?

この程度のNOはお前も折り込み済みか。

 

父「朝、味噌汁残してたやん?あれは頂けなかったと思うんよね。」

とりあえず難癖をつける。

 

娘「ゆーくんもお腹空いてるよね?」

弟「うん!

華麗に巻き込む。

 

娘「お父さんも何か買っていいよ…!コーヒーとか。」

俺が眠くてコーヒーに手をだしたいということまで計算づくか。っていうか買うことを「許可」してくれるんか。

 

父「大丈夫!お父さんお弁当作ったし、お腹空かせたほうが弁当は美味しくなるから!今日は…デザートのフルーツもあるんだなー。」 

フルーツのインパクトで話線を逸らす。

 

娘「え!何!?」

 食いつく。

 

父「フルーツって、どんなのがあったっけねぇ?バのつくものもあるし、他には何があったっけ…?」

勝ったな。

 

娘「んーーーーーーーーー…チョコじゃない?」

わー、グミから話線が逸れてチョコになったー。

 

 

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「わたし、ほしいものはほしいといいます。」

*******************

 

僕自身はホテルマンという職業を通して「YESマン」傾向を強めた。これは素晴らしい能力だったが、教師になった時の苦労にもつながっていた。

「NO」ということに抵抗があったり、こちらの意図に近づけるように交渉することが下手で失敗もした。

 

けれど、主夫としての日常は娘と息子が常時マシンガンのように自己主張してくるわけで。「NO」を通す力がなければ生活は破綻するわけで。彼らは無条件に欲求を通し続けていれば満足するわけでもないわけで。

 

結果、僕の中には「NO」及び「こちらの意も通そうと交渉する」という回路が作られるに至ったわけである。

 

 

他にも色んな能力が発達している。

 

例えば平面・空間図形。

 

例えば裁縫。

 

例えば調理。

 

あんなにも学校にいた時は強い苦手意識を抱いていたのに。

気がつけば、まぁまぁできる感覚を身につけている。

 

子どもと過ごす日々は、人生二週目だなってよく思う。

一度通り過ぎたものと、もう一度子どもを通して出会うから。

そして、当たり前だけど子ども時代とは違う反応が僕の中には起こっている。

 

変わる自分の中の教育観

焦る必要はないのかもしれないと思う。

 

だって、学童期に受けた教育や経験が、今楔となって芽を出して来ていると感じているから。

 

あの時は苦手だった。苦手ではダメだと思っていた。全てできるようにならなくてはいけないんだと思っていた。

 

けど、あの時苦手だったから、今この瞬間の自分の急激に開拓されていく能力に快感を感じる。

まるで別人だと感じるほど、強い自己主張をする瞬間を持ち、強い変化を実感する。

 

「教育」って、目のくらむようなロングスパンで見ないとわからない意味があるんだなとわかった。

 

それは、教育を受ける中で「失敗」「苦い体験」をした、「嫌い」なものが、年を経てから裏返って、小さい成功なのに「自分の中の大成功」になり、「大好き」になり、「自信」を生む結果につながるということだ。

 

僕たちの「学び」は学生時代では終わらない。生きている限りずっと続く。

 

だから、「今この瞬間にわからせる」こと、「今この瞬間にわかる」ことだけを追い求めれば、後の伸びしろは消えてしまう。

 

その人の人生における「タイミング」が来たときにおこる急激な上昇体験を失わせてしまうのではないか。

 

それってどうなんだろう。

 

子ども達を見ていて、いつも思う。

 

「この子達は僕とは全然違う。」

 

娘の大人や年上といったものを気にせずガンガン交渉する様には圧倒される。

息子の圧倒的鯨飲力には驚かされるばかりで、提供した食事を3秒後に消す姿はまさにマジック。

 

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きっと、彼らは僕とは全く別のアプローチで、それぞれのタイミングで物事を「勝手に」学んでいくんだろうなと思う。

 

そう考えると、自分のとれる子どものための教育観が変わってくる気がした。

 

僕が感じているこの感覚は、「主夫」という立場になり、「子育て」を通して、自分の人生を再構築しているから得られているものだ。

 

めちゃくちゃ忙しいが、この期間には遊びと学びと暮らしと、働くことがともにある。

 

この期間が、そしてこの期間が教えてくれた「学ぶ」ことの意味が、僕の人生や今後の仕事をもっともっと面白くしてくれるという予感がある。

 

この先、子どもが幼稚園に入ったり、小学校に入ったりして人生の比重は「働く」に傾いていくが、そこに今のような「遊ぶ」「学ぶ」「暮らす」のリンクがないのはひどく味気ないし、つまらないように思う。

 

子どものためのもう一つの「学びのアプローチ」

それは、社会に出た後、学び・遊び・暮らし・働くことを見直すことのできる場所をつくることだと僕は思う。

 

主夫の育児の期間というのはまさにそれで、幼児・子どもと深く関わるという経験は、愛情やぬくもりと共に、自分を見直し、再構築・再発見する機会を与えてくれた。

 

こうした機会は、もっと男性にも、育児に関わらずとも、開かれて欲しいなとも思う。

 

とりもなおさず、自分が学んで、試して、経験する。親であり自らを「大人」と呼ぶ僕らが、もう一度学び直せる社会。世代を超えて学び合える。

 

やれ高等教育だーとか、そんな高度で高尚なものでなくても構わないと思う。

 

0歳から22歳に学びの全てを背負わせるのではなく、ゆる〜く「100歳まであるし、ぼちぼちいこうや兄弟。」と気長に構えられるような、そんなスタンスを取りたいと思う。

 

子どもをめちゃくちゃ勉強させる!子どもの教育を変える!っていう方向性ではなく、

 

大人になってもゆるくとも長く勉強する。それができる場を作っていくという方向性。

 

前者の教育改革は勿論重要だけど、限界がある。

それよりも、受けてきた教育経験が後になって活きるように、働きながらでも学べる、暮らしながらでも学べる環境が必要だと思う。

 

大人がゆるくながく勉強したり、試したり、遊んだり、働いたりできる場や環境、文化を作る。そのために、自分のできるアプローチをこれからしていこうと思う。

 

言うは易く、行うは難し。できることをできる範囲で。

と、最後に随分大きく広げたものの、でっかいことをでっかくするつもりはないのです。

 

けど、個人としてできること、個人だから持続可能な活動があるなと思っていて、個人としての活動を、人とつながり協力しながらしていくつもりです。

 

僕の状況で今できることは、

主夫として子どもと生活する中で感じたことを発信すること。

主夫・親として地域の「場づくり」を行うこと。

ライフサイクル、自分自身の再調整・パートナーシップに関する支援を出店やワークショップなど行っていくこと。

  

これらを、少しずつできる範囲で続けていこうと思いますので、今後ともよろしくお願いします♪

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http://www.facebook.com/koutolife/

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3月、4月も鳥取に出店予定です♪詳細後日お知らせします!
 

 

《主夫育児を通じて気づくこと-前編》大人と子どもの境界線

この9ヶ月、毎日ずっと子どもと過ごしてきて、しんどい時期をやっとこさ超えてきた感がある。

 

や っ と だ よ 。 

 

相変わらずキャパオーバーを起こして、不機嫌ハイパー状態になることはある。

 

でも、昨年4月に比べれば頻度は3分の1。

支えてくださった方々、誠に多謝。

 

 

そして最近、自分の中に重大な意識の変化が起こっていることに気づいた。

 

それは…

 

「大人」「子ども」というカテゴライズが自分の中から消滅しつつある。

 

ということだ。

 

「 大人」と「子ども」の境界線

NHK教育のQ君も抱く素朴な疑問。

「大人ってどんな人?」

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 昔、学生時代には、学校を卒業していわゆる「社会人」になることが「大人」になることだと思っていた。が、なってみたら全然「大人」ではない気がした。

 

じゃあ「親」になったら「大人」になるのかなと思っていたが、そいつもどうやら違ったようだ。

 

子どもと大人の間に明確な境界線が引かれた世界の中に自分はいて、その中で生きてきた気がしていたが、

 

ここにきて「大人」と「子ども」が溶け合って、そうしてその境界線が消えてしまったのだ。

 

 どういうことか。

 

つまり、子どもと共にずっと過ごすことで、

僕らは一緒にいながら「僕も娘も息子もそれぞれの発達を進めている」というあたりまえの事実に気づかされたのだ。

 

例えば、

息子は日々消化能力を高め、排泄コントロールを学んでいる。

 

僕は息子の排泄物を毎日見て、

「あぁ、きのこ類って本当に消化が難しいんだな…」と実感し、学んでいる。

 

そして娘は、

「ゆーくん、トイレの時は『トイレー!!』っていうんだよ?」

と教えて姉として在るということを学んでいる。

 

どこまでいっても、僕たちは発達の途上にある。「大人」という完成を、おそらく僕らが手にすることはない。死んだとしても、きっとまだ続く。

 

そんなことを認識し、我が子の方を振り返ると、僕らの間に「子ども」「大人」という括りはなくなっていた。

 

僕たちは共に、今生きる中でそれぞれ何かを発達させている。

 

 

ま、勿論便宜的に「大人」「子ども」という括りはあるわけだが。

 

娘談。 

「お父さんは大人の味方。みーちゃんはま○ちゃんの、子どもの味方!」

 

あたりまえだ、ご飯をポイする「子ども」を許せるか!そこは譲れん!

 

 

 

子どもと共に過ごす中で学ぶイノベーション

そんなわけで、彼らを育てるという名目で彼らと過ごす日々は、僕自身の発達とも結びつき、それらを進めるアイディアをくれる。そんな風に感じるようになった。

 

最近「ニッポンのジレンマ2019」に出演してい渡邉 康太郎という方が気になり、

『takram design engineering|デザイン・イノベーションの振り子』 (現代建築家コンセプト・シリーズ18)

『takram design engineering|デザイン・イノベーションの振り子』 (現代建築家コンセプト・シリーズ18)

 

 という書籍を購入した。まだ冒頭部しか読んでいないのだが、そこにこんな箇所があった。

 

熟練したデザイン・エンジニアは各マス目の専門家と専門用語を用いて対等に会話することができ、各要素の相対関係を掴む感覚を備える。

 ただし最初からこのように複数の専門性を飛び越えていくようなスキルや経験を持つ人間はいない。まずは、ひとつの分野でプロフェッショナルとして通用するレベルの経験を積み、その後、その分野に隣接する分野の仕事を少しずつ積んでいくことで、2つ目の専門性を獲得する。典型的な例では、ソフトウェアのエンジニアリングを修めた者が、次にソフトウェアのデザインに入り、その分野でのデザイン・エンジニアとしての経験を積む。さらにその後、ハードウェアのデザインやハードウェアのエンジニアリングに入っていくようなパターンをとる。このように一つひとつをクリアしていくことで、分野を飛び越えていく感覚が、ごく自然に身につくようになる。

 takramはこのような分野横断を「越境」という言葉で表現している。

 

子どもの場合、この「越境」の感覚が凄まじい。

 

というか「専門」など当然持たず、そもそも境を持たないゆえに、なんでもくっつける。とりあえず彼らは組み合わせる。

 

最近の息子の興味関心は「食べること」と「排泄すること」である。

 

そんな彼が最近よくにこやかな笑顔でする行動が、

 

おままごとの調理用ボウルを自分の履くおむつ前部に密着させ、「シー!シー!」と連呼すること

 

である。

 

料理と排泄が境を持たず、結合する。僕にとってはある種の「越境」である。

 

まさにイノベーション

 

なんたるイノベーションだ!

 

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帽子は鼻まで被るもの。

 

彼らのおかげで、明らかに同居しえない組み合わせも、意外にいけるんじゃないかと、とりあえずくっつけてみる発想が生まれるようになった。

 

そして、人生の中で得た様々な専門的知識、技術、発想が明らかに隣接していないように感じても「結合しうる。何か相互に影響を与えあって新たな価値を生み出しうるのではないか。」と考えるようになった。

 

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どんぐり帽子×くるくるブロック×ブロック=グラディエーター
 

子育てはしんどい。だが、やはりそこには豊かさもある。

娘とおままごとをしていると、前提を大きく覆される反応をして、固定された回路を時にぶっ壊してくれるのが面白い。

 

例えば、おままごと中のこと。

お皿に載せたリング上の木製玩具。彼女はこれを「デザート」と読んでいる。

 

しかし、デザートを運んでいる最中、不意に足をとられ、つんのめる。

 

床にばらまかれる仮想デザート達。

 

 

瞬間、彼女は口走る。

 

「わたし、拾わない!!」

 

高らかな、どこか誇らしげですらある宣言だった。

 

そうか。こぼして「拾わない!」と宣言することも、できるのか…。

 

「拾って」と頼むでもなく、「こぼしちゃった」と嘆くでもなく。

 

起きてしまったアクシデントを前に、誇る。

 

そうか…。

 

 

 

彼女達との日々は、いつだって僕の中の垣根を壊してくれる。

 

自分の中に出来た、今までの秩序・思い込み・経験を疑い、壊し、大事なものを残し、再構築する。

 

親として今経験している発達段階とは、そんなものなのかもしれないなと感じる。

 

 

 境界線の消失が生む、異年齢コミュニケーション。

 そうして、「大人」と「子ども」という括りがなくなってくると、面白い変化が起きた。

 

なんだかあらゆる年齢層の人たちと、心の距離が近づいたのだ。

 

幼児達と共に過ごすのがうまくなったのは言うに及ばず、普段そんなに接しているわけでもない40代以上の方々とも、自分が持っていた「隔て」がなくなっている。

 

一方的関係ではなく、お互いに何かを相互に影響を与え、相与えうる存在だと気付いたからなのだろうか。

 

前回の記事

で、「友」について書いた。僕は元々「友情」についての感覚のにぶい男だった。

 

でも、子どもとの日々は僕に「友情」を求める心を掘り起こし、「友」を求める・「つながり」を求める回路を作り上げた。

 

それは今も動き続けている。今日会った1歳の彼とも、「友」になれたら嬉しいし、10歳の方とも、20歳の方とも、50歳の方とも、70歳の方とも、90歳の方とも、友となれたら嬉しいと思う。

 

そう思うようになったきっかけは、間違いなく「主夫」として過ごしたこの9ヶ月である。

 

 

 

次回はこの続きを書こうと思います。

 

母親である友と旦那さん、そして男性である僕と。

2018年はどんな一年だったか。

 

「友達が欲しい。」

はっきり言って、これに尽きた。

 

4月から引っ越しした先での、家事育児生活。

どこに行っても他に主夫をしているパパさんなどおらず、

同じような立場で頑張るママさんたちの居場所に子供と共に顔をだしまくった。

 

近所の公園、児童館、母親サークル、プレ幼稚園、県外の子育てコミュニティ…

 

「毎日顔を合わせて、自然と友達になる。」そんな夢を見ていた。

けど、毎日子供を連れて行き、顔を合わせるような場所は近くになかった。

 

出会う人はみんな好意的だった。「パパなのにすごいですね!」とみんな言ってくれた。でも、いっぱいいっぱいだった僕がしたかったのは「パパ奮闘話」ではなく、「僕の話」だった。

 

子どもの話ではなく、パパの家事話でもなく、 

僕の話ができる人。最近草木染めにはまっている、とか。

 

そんなバカな話が何の遠慮もなくできて、

 

「またそんなことばっかりいってるんでしょ?」

と屈託なく突っ込んでくれるような、友達が欲しかった。

 

慣れない家事育児に内から湧き上がって外に膜を張るような疎外感。

毎日深夜に電柱に頭を打ち付けて叫びだしたいような衝動を抱える日々。

 

ただただ、友達が欲しかった。

 

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孤独と、そうでないことの違い。

けれど、ある時一人、「パパとして育児を頑張っている変わった人」ではなく、「みーちゃん、ゆーくんのパパ」ではなく、僕個人として関わってくれる人が現れた。

 

孤独感に苛まれて、一人いたたまれなくなって、隅っこで子供たちと遊んでいたあの時、他の人に声をかけてまでフェンス越しに寄ってきてくれたあの瞬間。

 

確かに僕は救われていた。

 

わざわざ「近くを通ったから、いるかなと思って。」と、話しかけにきてくれたこと。

それがどれだけの救いだったか。

 

孤独というのは、0だ。

孤独ではないというのは、1以上の全数字だ。

そこには大きな隔たりがある。

 

0から1になった瞬間に、大幅に世界は書きかわる。他者と交わる世界が増え、「友」と言える人が急速に増えていく。

だから、その楔になった「一人」がとても大事なのだと思う。

 

孤独感にどっぷり浸かった世界から僕を掬い上げてくれる友達に、僕は出会えた。

そこからは疎外感の膜は消え、いや、そんなものはどうでもよくなり、顔をあげて人と関われるようになり、友達関係が構築できるようになってきた。

 

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でも、もどかしいのだ。

友情を示したいと思う。助けになりたいと思う。気軽に話したいと思う。

 

けど、その大事な友達は「ママ」なのだ。

 

パパにとってのママの友達のパパ。

気軽に電話をかけたり、ちょっと公園で会いましょうと言ったり、子供たちを連れて遠出したり。

 

そんなことをし続ければ、相手の「パパさん」にとっては目障りな存在になって、家庭不和を招きかねない。

 

すると、一歩引いて接しなければいけなくなる。

 

家に入るなんてとんでもないことは当然するわけもなく、門の中にも入らない。

子供たちは庭に入っても、僕は庭にも入らない。パパさんにとって嫌だとわかっているし、人の目で相手に余計な誤解の目を与えたくないからだ。

 

そんなに気をつかうならそもそも「会うのやめろよ」というところなのだが、せっかく得た友達。よほどの事態にならなければ、なんとか関係は維持したいというのが僕の本心。

  

確かに、仕事に長時間拘束され、日夜家族のために粉骨砕身しているパパの立場からすれば、はっきり言って僕のような「パパ友」は目障り千万だろうと思うのだ。

 

自分が仕事に言っている間、見れない可愛い我が子と遊び、不足しているパパ分を「別のパパ」に補充され、自分の大切なパートナーと談笑され、仕事から帰ったら「今日も◯◯ちゃんと◯◯ちゃんのパパと遊んだの!」などと楽しそうに話される。

 

不愉快極まる。

 

大体、他にいーーーーーーーっぱいママ&同い年の子がいるんだから、男なのに仕事いかんで子育てしてるパパなんて無視して、他のママ友と仲良くせいや

と思うだろう。至極当然。その通り。

 

でも、そんなこと言えるはずもない。だから、不満を言葉にせず、押し黙る。不機嫌にさせてしまう。そして、それは家庭にとってあまりいい影響を与えない。

僕にとって、それは望むところではない。

 

書いていて、思う。僕と「友」となって親しくしてくれるということには「メリット」はないのだ。それは、家庭にとってのリスクであり、世間体的にもリスクである。

 

でも、それを知りながらも距離を置かずに付き合ってくれる。

 

それが僕には嬉しい。とてつもなく、嬉しい。性別の違いがあっても、「あの人は友達だから」と言ってもらえることが。それがどれだけ得難いことか、僕は実感として知っている。

 

この友情に報いる方法を、僕はまだ知らない。

 

ずっと考えている。

僕はどうしたら報いることができるのだろう。

 

こんなこと言ったら「だからお前誰なんだよ。」と逆に憤慨されそうなので、決して伝えられないが、

あなたがパートナーとして選んだ人は、素晴らしい人ですと、ただただ僕は救われましたと、本当は伝えたい。

 

大丈夫、人として素晴らしいのであって、僕が女性として愛しているのは妻だけなので。

 

と伝えたい。

 

「なめんな」

と殴られそうだ。

 

 

考えながら書いていて気づいたこと。

ああ、そうか。

書いていて、気づいた。

 

僕は「なめんな!」と怒られるのが怖くて、強引にでも旦那さんに会いに行くのを避けている。

 

その旦那さんと仲良くできないんじゃないかと思って、それが怖くて、避けている。

明白にギクシャクした関係になったら、今のような関係が維持できないから。

 

やっぱり、会って「奥さんに救ってもらって、感謝しています。でも、僕はそういう対象として見る女性は妻以外いないのです」と率直に話して「なめんな!」と言われるべきなのだ。

 

そうしたら、すっきりするはずだ。なにより旦那さんが。「得体のしれない男」より、「なんか妻に感謝してるらしいなめた馬の骨」の方が、なんぼかマシだろう。意気投合できなくてもいいのだ。

 

そして、友人であるママさんと、その旦那さんと娘の大切な友達である子供たちに、自分の活動から渡せるメリットや、友情を惜しみなく注げばいいのだ。

 

以前に言われた。

「ママ友と仲良くなるなら、家族ぐるみで付き合わなきゃだね!」

 

そうしようと思っていたが、どうにもタイミングが合わなくて遅れてしまった。

タイミングを強引にでも合わせに行っていなかったのだ。

 

来年度、パパ講座とか、幼稚園の送り迎えのあるパパママ向けのコワーキングスペースづくりとか、キャリアカウンセリングの新しいワークとか、やりたいことがたくさんある。家族とのことも、子どものことも。

 

けど、これは2019年の最優先事項。忙しさにかまけて後回しにしていいことじゃない。

 

だって、2018年の自分を救ってくれた大切な友達と、その家庭のことだから。 

 

  

『ご縁』を言い換えると。〜鳥取大丸出店中のとある1名様へのご報告とセッション後に起こることの紹介〜

久々に鳥取出店、行って参りました!

呼んでくださった方、ご一緒させてくださった方、来てくださった方、気にかけてくださった方…恐悦至極でございました。

 

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…笑顔練習せい。

 

 

さて、表題の件です。

 

今回の出店中のセッションで出た、この組み合わせ。

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「ご縁」×「他の言葉で置き換えると?」

 

 

このセッションと、この問いがずっと残り続けていました。

 

いや、忘れるんですけどね。

 

子どもが肘ついてご飯食べたり、1歳児がわざとおさじさんを落としたりして、

 

「あ゛あ゛?」

 

ってなったり、

 

息子が1日便秘になって、痛そうに夜うめいたり日中不機嫌だったりする様子に始終気を取られて・・・

 

「はよ便様来て・・・」

 

などとひたすら祈っていたりしていると。

 

けど、やっぱりセッションを通じて問いアンテナが立ってると、折に触れて考えるんですよ。

 

ということで、今日はセッションを受けてくださった方に向けて書きます♪

 

一週間ほど考えましたが、僕にとってしっくりくる「ご縁」の言い換え、見つかりました!

 

「ご縁」は苦手な言葉。

いや、苦手なんですよ。

 

この「縁」のような、明らかに反論の余地がない

「誰がどうみても大事にしないとダメでしょ!!!」という

100パーセント白に見える言葉。

 

しかも、ご丁寧に接頭語の「ご」まで付いているじゃないですか。

 

同じく近い言葉で言うと、「感謝」もそう。

 

 

「必ず感じなきゃ人に非ず!示さなくては人に非ず!」みたいな。

 

なんか、「えー…あんまり正直あんまり好きじゃない」って言うと

 

え?大事だろ?え、皆大事にしてるだろ?

え、お前大事にしてないの?ご縁、感謝。

うっわーー、まじお前サイテーだな。

 

って、なんか言われているような気がしてくる。

うん、すごい被害妄想。

 

でも、何かしてもらって「嬉しい!超感謝!」って時もあれば、「うわー、申し訳ないけど、ありがた迷惑だったかも…」って時もあるじゃないですか。

 

例えば、良かれと思って、ハロウィンに当家の幼児に向けて大量のジュースやお菓子を用意してくださったとする。

 

しかし、当家の幼児はお菓子を多量摂取すると気が触れたかのように泣き喚いたり、癇癪を起こすことがある(因果関係はもしかしたら無いのかもしれないけど)。

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なので、善意からお菓子をくださったとしても、親心としては全然嬉しくないのです。

「子どもに見せる前に、一言僕に確認して欲しかった…」とか思っちゃう。

 

お菓子との付き合い方も慣れていかなきゃいけんし、避けられないからいいんですけど…

 

ですけど…。まだ折り合いが僕の中でついていないんです。

 

面目無い。

 

でも、そんな複雑な心中をして、「それでも善意でしてくれたんだから感謝せぇよ」というのはちと無理がある気がして。

 

「はいはい、ありがとありがと。」って口だけで言われたって嫌でしょうと。

 

「そういうこと考えるお前自身の人間ができてないのが問題なんじゃボケ!」

 

って言われているような気がしちゃうんですよ…。

本当にすごい被害妄想だ。

 

 

そんなこと言いながら、毎日子どもに何かしては、

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「ありがとうは?」

って言っているんですけどね。

 

凄まじい自己矛盾。

 

あの娘の微妙な表情、たまらない。

 

 

と、まぁ本来美しいも何もない、何かを表す言葉である「感謝」にも、

 

僕自身の人生経験から色々くっついてきた垢や、不特定多数の人々のレッテルが沢山ついていて、なんか真正面に見れなかったりするわけですよ。

 

本当のところ、僕自身が「感謝」をどう考えているかも。

なんでそんなに「感謝」を強制される感覚が嫌いなのかも。

 

 

でも、そこに「他の言葉で置き換えると?」という問いを噛ませると、

くっついていた余計な垢が取れて、自分自身の捉え方がくっきりみえてきたから不思議です。

 

 

僕自身の「ご縁」に対する今までの捉え方

僕は嫌いなのです。

この「大事にせえよ!」と強制される感覚が。

 

だって、めちゃくちゃ大変じゃないですか?縁を大事にするのって。

 

僕の「大事にする」って、その瞬間の全力投球・全力集中だから、重いんですよ!

 

不義理をしないためにまめに連絡入れて、メールの返信をすぐして、来るもの全部、関わるもの全部に全力で意識を振り分けていたら…。

 

一週間で正気じゃなくなると思う、正直。

 

物理的に不可能。「ご縁を大事にする=全ての出会いに感謝!」は無理!

 

元々、結構目の前の相手や物、空間にいる人の感情に敏感な方で、「あーーー、目の前のものを気持ちを大事にせにゃならん。」と感じる方なので、目の前にあるもの以外に気を払うのは、難しい。

 

目の前の相手に、物事に、全力で集中したいんです。

 

なんたる不器用さ。

 

だから、全力で集中できる時以外は、ちょっと横に置いておきたいわけで。

 

大事にできる時に、大事に思ってるって伝えたいわけで。

 

そういう、器があまり大きくない人間なので、

 

「え?メールすぐ返信しなきゃだめじゃん?縁大事じゃん?不義理じゃん?」とか考えさせられるのが嫌なのです。

 

そんなのわかってんだよと。

 

だけど、正直自分の特性考えて悩みぬいた結果、その辺は割り切るしかないと最近ようやくわかってきて。だから「自分のできるタイミングで、できることをできる範囲でしよう」と決めたんです。

 

だから、その辺の時間感覚が自分とある程度合っていて、わかって気にしないで付き合ってくれる人を大事にするし、なるべく不義理が発生しないように出会い口から絞っていこうとしています。

 

沢山の人より、限られた人数を対象にする形式をとり、個人や少人数グループを中心にした、自分の得意で相手のプラスになる環境を作り出すことを常に意識する。

 

 

そういう僕にとって、「ご縁」とは別の言葉に置き換えると…

 

「結び目・つなぎ目」がしっくりきました。

 

何事も「合う時は合う。合わない時は合わない。」もの。

好不調の波も激しく、目の前のことだけに集中したいという門戸の狭い僕は特に顕著かもしれない。

 

しかし、お互いのタイミング、相性もある中で、奇遇にも合った。

その中で「合う」ことが続くと相手との関係は強くなる。

 

「今じゃないことは今しない。」でも、関係が維持できる。

そして、「今だと感じたことを今する」、「目の前のものに全力集中」することで出来ていくつながり。

 

それが僕にとっての「ご縁」です。

 

もしも今、タイミングや感覚が合わなくても、いつか合う時には、つながることができるかもしれない。

 

もしも合わないことが続いて離れてしまっても、また合う日が来るかもしれない。

 

本当に嫌だと感じたら、縁を、「結び目」を切ったって構わない。

 

だから、今合わないことに罪悪感を持つ必要はない。結ぶ部分はいつでも残しているから。

 

そう「縁」を捉えると、僕は日々に集中していられる。

心が痛まないで生きていられる。

 

だから、この言い換えがしっくりきました。

 

・・・僕がすっきりしてしまいました。

 

あのセッションの続きの、何かの参考になれば幸いです。

 

〜この言葉の置き換えの効果とは〜

⑴自分や慣習から来る思い込みに気づける。

「ご縁」には別に「絶対大事にしなきゃいけない!」わけではないし、「全ての人、全ての出会い」でもないし、強制力を持っているわけでもない。

 

でも、そう思い込んでいる自分がいて、嫌がっている自分がいることに気づくことができます。

 

⑵置き換えることで、自分にとってしっくりくる言葉になる。

 

自分にとって嫌じゃない、感覚的に合っているやり方・考え方は何か置き換え先を考えていくことで、自分自身の感覚に向き合い、自分の人生哲学に合った解釈に書き換えることができます。

 

⑶自分にフィットしたやり方・考え方で動けるようになる。

そうなると、言葉や経験への過剰反応がなくなって、自然に反応できるようになってきます。僕であれば、会いたい人のところに訪問して会えずとも、

 

「ああ、今日は会える日じゃなかったのか。じゃあまた今度でいいや。」

 

とあれこれ考えなくなりました。すごい変化だ。

 

〜〜20・30分のショートセッションの効果〜〜

ショートセッションの効果の大きい部分ってこんなところにあるように思います。

20分や30分そこらじゃ、当然セッションは完結しないんです。(形としては終わりますが。)

 

途中で終わった感がある。答えが出ずに余白があるような状態で、終わる。

 

でも、20分や30分の間に、何かひっかかる。

 

この引っかかりが「問い」であったりする。

 

今回は、「縁ってなんだろう」「縁という言葉をなんで嫌がっているんだろう」という問い。

 

この問いのアンテナが立つと、無意識に答えを探す状態になります。

 

そうしてアンテナが立った状態でしばらく生活すると、答えが含まれているような体験に高確率で出会うから不思議です。

 

ぜひ、またショートなセッションでアンテナ立てに来てください♪

 

2月に鳥取に出店できるかな・・・。また決まったらご連絡します♪

アンパンマンブロックに自作シールを貼る。

ことの発端は、エルサにある。

 

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こやつがエルサである。

 

娘の中では、

わたし(みーちゃん)=ドキンちゃん=チョロミー=エルサ

という公式が組みあがった。

 

時を同じくして、水色の子と息子が「アナ」と呼ばれるようになった。

 

わたし(みーちゃん)=エルサ=年の近い兄弟姉妹=アナ=コキンちゃん=弟(ゆーくん)

 

という公式である。

 

(息子は「ねぇ、アナ」と呼ばれると、胸を叩いて「僕はエルサだ!」と抗議の意を示す。)

 

 

 

とにかく、彼女の第一は今、エルサなのだ。

 

この公式はおそらく、今までのドキンちゃんファーストの世界観からエルサファーストの世界観へ転換していく中で、彼女なりの整合性をもたせようとして作り上げられたものである。

 

つまり今が過渡期なのだ。

 

アンパンマンとがらぴこぷ〜から、プリンセスの世界へ羽ばたこうとしている。

 

プリンセスの、、、無限物欲の幻想世界への飛翔。

 

 

僕は焦っている。今、今まさにここで手を打たなければ…

 

所構わず踊り出し、「ありの〜♪ままの〜♪」と歌い上げるあの情熱が、

 

我が家のアンパンマン製品(主にブロック)をゴミ屑扱いし、ドレスやティアラをやたらめったに欲しがる女王さまに彼女を変貌させてしまうかもしれない…。

 

というわけで考えた。

 

 

ドキンちゃん=エルサ&コキンちゃん=アナ」の公式を決して揺るぎない強固なものにすればいいのだ。

 

つまり、アンパンマンブロックにアナ雪的世界観・プリンセス的世界観を持ち込む。

 

簡単に言えば、「ブロックにシールを貼ってしまえ!」ということ。

 

アンパンマンブロックに自作シールを貼った結果。

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我が家のアナと雪の女王

 

 

姉弟による奪い合いが勃発。

 

ふむふむ、どうやら好評のようだ。

 

 

アンパンマンブロック用自作シールの作成方法。

他のブログさんの情報から、プリンターで印刷するシールはこちらを使用。 

エーワン ラベルシール キレイにはがせる ノーカット 10枚 31271

エーワン ラベルシール キレイにはがせる ノーカット 10枚 31271

 

シールの印刷データ作成はWordを使用。A4サイズ、余白は狭いを選択。

 

アンパンマンブロックの基本ブロック(顔がプリントされているような立方体)は、

一辺が約31mm。こネットで公開されているフリーデータ(場合によっては有料データ)を画像として使用し、サイズを合わせて印刷、切って貼れば良いだけである。

 

ただ、無駄なく簡単に加工&印刷ができたらいいなと思って調べたところ、Wordには「グリッド線」なるものを表示する機能があるとのこと。 

 

⑴ページレイアウト→配置→グリッドの設定

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⑵文字グリッド(横)、行グリッド(縦)共に手入力で「30mm」と入力。

 グリッドの表示欄はチェックを入れて、どちらも「1」を入力。

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すると、

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3cm四方のグリッド線が引かれる。

 

⑶あとは、画像を挿入し、折り返し位置を「前面」にした後、グリッド線に合わせてサイズを変えるだけ。グリッド線があると、パソコンがある程度サイズを合わせてくれるので非常に便利でした。

 

元々が正方形なので、使用する画像もそれを考慮したサイズにトリミングしておくと、挿入してからのWordの作業が楽になりますし、出来栄えもよくなるかと。

 

ラベルシールはロット10枚で、1枚あたり50円弱の単価ですが、A4ページ設定「狭い」で6×9=54面の印刷ができるので、コストとしてはまずまずお安いほうなのではないかと思います。

 

⑷印刷。そして切る。

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定規とカッターがあれば完璧ですが、ラベルシールは裏が方眼紙になっていて、前の画像を灯りで透かしながらハサミで切れるので、ハサミでもある程度の綺麗に切れます。

 

 

⑸貼る。ちなみに、ブロックは「無地だからこそ想像力が発揮される」という部分も多分にあると思うので、うちでは元々イラストの入れられているブロックの空いている面にシールを貼ることにしました。

 

以前おじいちゃんおばあちゃんに頂いたこやつらを使用。

 

⑹完成

 

 

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気がついたらガラピコを印刷していた不思議。

 

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アンパンマンブロックがガラピコぷ〜ブロックに変貌した瞬間。

 

ガラピコだけでかい。子らが起きた時の反応が楽しみで仕方がない。

 

 

あ、あれ・・・プリンセスは・・・。

 

 

無地のブロックと、プリント(シール)ブロックの住み分け

アンパンマンブロックは、ブロックのみの造形というよりは、キャラクターを利用したごっこ遊びの要素がかなり強いです。

 

とはいえ、シールでキャラやイラストを多用すれば、発想の広がりがなくなってしまうので、基本キャラや服以外は汎用性のあるイラストぐらいで済ませておくのがいいのかな…?と今の所考えています。

 

ガラピコ達以外は海、雲、宇宙、火といったイラストだけを印刷してみました。どんな反応をするのかな。

 

自作シールの可能性

3cm四方のマスの中に手書きでイラストを書いてブロックにすることもできるし、パソコンやipadでデザインすることもできる。

 

ブロックと組み合わせる3cmの世界は、結構奥が深そうだし、面白そうだと作っていて感じました。

 

子供が「自分でなんだって作れる。工夫次第でいろんなものを自分でデザインして遊ぶことができる」という感覚を少しでも掴んでくれたら嬉しいのだけど…。はたして。

 

〜〜〜〜〜出店情報!〜〜〜〜〜〜〜

ついに出店が明日に迫りました、chouchouさん&鳥取大丸さん企画のイベントです!

Happy Holiday〜クリスマス編 chouchou in鳥取大丸 vol.3

 

素敵な出店者様揃い!皆様ぜひお越しください♪

 

ガチャガチャ戦記。

1年間、この日待ちましたよ。

 

待ち焦がれましたよ。

 

うっかり忘れてた!!という方、発売されたんですよ。

 

何がって?

 

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アンパンマンブロックスイングラボ8がですよ!

 

 

思い起こせば一年前、鳥取のマルイで僕らはスイングラボ7に初めて出会った。

 

それまで娘から数多あった種々様々なガチャガチャの購入依頼を、ことごとく突っぱねてきていた。

 

プリキュアやよくわからんスライム、アンパンマンシリーズも例外ではなく、

 

「ガチャガチャはせんよ。」

 

と一蹴していた。

 

だって、スーパーに行くたびに一回200円や300円するものを買っていたら、天美卵の購入資金を貯められんのですよ。

 

一週間と持たないおもちゃより高くても美味い卵が食べたい。

だからガチャガチャはしない。

 

それが我が家のロジック。

 

大体自分の幼少期を振り返れば、くにおくんのカードダス、ドラゴンボールのメンコといった20円台で買えるものをコレクションしていて、100円もするガチャガチャなど高級品で手が出なかった。

 

それをデフレだかなんだかわからんが2倍や3倍に値上がりしたガチャガチャなぞ、子どもに買ってやれるわけがな

 

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え?

 

 

 

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か、カバお!!カバおじゃないか!!!

 

 

 

うちにあるアンパンマンブロック、何か足りないと思っていた。

アンパンマンドキンちゃんバイキンマン。ドールでなければ四角いバタ子さんやジャムおじさん、アカチャンマンもいる。

 

一通りの遊びが出来るキャラクターは揃っているはず。

 

しかし何かが足りない。

 

 

そう、この瞬間気づいた。

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足りないのはカバおだ。

 

ヒーローがいくらいても、役割はかぶる。

 

必要なのはバイキンマンに嫌がらせされて泣き叫び助けを請う一般人、エキストラだ。

 

彼さえいれば、うちのブロック遊びの世界は…広がるぞ。

 

「コ、コキンちゃん!ガチャガチャしたい〜〜〜」

 

とせがむ娘に、

 

「そうか、コキンちゃん可愛いし、欲しいよね。今日は一日頑張ったし、特別だよ♪」

 

と、突然の翻意を見せる父。

 

内心では、

「カバお出ろ、カバお出ろ!カバおだぞ!!!!」

 

などと子どもの願いなど微塵も考えず、いや、『もし最悪コキンちゃんが出ても娘はご機嫌だからまぁ良しとする。』などとがっかり保険扱いしているという人非人ぶり。

 

結局コキンちゃんが出て、娘が大喜びするものの、

 

「ゆーくんにも買ってやらないとなっ!!」

 

と、カバおに取り憑かれた父は200円の再投入を試みる。

 

結果アンパンマンという非レア(コモン)を引くという失態。

 

まだ一歳にもならない息子だが、アンパンマンにご満悦。

 

だが、

 

「そうか、カバさんが欲しいのか…」

 

という別の誰かの心情を代弁し始めて3回目突入。

 

結果、

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彼(非レア)という惨敗ぶり。

 

「せめてダダんダンだせや!!!!」

 

という叫びは胸の奥にしかと秘め、

 

「 またやろうなっ!!」

 

と頼まれてもいない約束を交わして、買い物を終える妻を待ったあの日…。

 

 

結局カバおが出るまでに8回ぐらいはマルイに通った。

 

 

あのカバおを逃した日の落胆とゲットした日の感動が、「次のシリーズはいつ発売するんじゃ!!」と僕に定期的にWeb確認をさせるほどの執着を生み出させた。(ちなみにカバおは引越しの際紛失。)

 

 

そのアンパンマンスイングラボ8がついに発売!!

 

 

発売日を知るや否や、

 

「みーちゃん!ゆーくん!ガチャガチャでドキンちゃんが出るらしい!!」

 

「え!ほんまや!買いにいこ!」「あーあー!(いこういこう!」

 

と即刻イオンに誘導。1時間かけて確実に売っているであろう大型イオンを目指す徹底ぶり。

 

一年前はあのガチャに踊らされ、我が子を偽るような真似をしたが…今の俺は違う。

 

「みーちゃん、200円。その次はゆうりな。200円。んで、お父さんがその次ね。

 

と、なんの誤魔化しもなく参戦。

 

結果。

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娘・アンパンマン(若干色合い・質感が持っているアンパンマンと違う。手持ちとダブりを恐れている方々、ご安心あれ。)

 

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息子・ドキンちゃん(既存のドキンちゃんよりほんの少しだけ小さい。手持ちとダブりを恐れている方々、ご安心あれ。)

 

二人は当然のようにトレードを済ませ、父の結果を待つ。

 

そして…

 

 

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ちびぞうきたぁあああああああああああああ!!

 

ふっ、前二人の結果は残念だったが(我が家の狙いはドールが乗れるタイプの「ポッポちゃん」だったため。)、ちびぞうゲットできたならまぁ満足だ。

 

と思っていたら、

 

「あ、私もしたいしたい!!」

 

と、まさかの妻参戦。

 

そうか…そうだな。君も一年間、待ってたものな。廃盤のモグリン、メルカリで落札してくれたもんな。

 

頼んだぞ。

 

 

 

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うおおおおおおおおお、テッカちゃん!!おしい!!!

 

「あと一回、あと一回やれば行けるような気がする。けど、、、ここは引き時。

これ以上は泥沼だ。あー、あのカプセルがポッポちゃんか、大分上のほうだなぁ…。あのカプセル、あれが次のやつじゃないか?なんか白い手みたいのみえる…ポッポちゃんじゃなさそうだけど…わからんなぁ…。いやでも…」

 

妻「そんなにやりたいならもう一回やったら?笑」

 

「え?マジでいいの?そんなに言うならしょうがねぇなぁ〜。

 

というわけで5投目。

 

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テッカちゃんが双子になった。(やっぱり白い手見えてた…)

 

 もう後半3回は完全に子どもおいてけぼりの熱量。

 

でも、いいんだ。ポッポちゃんが出なくても。

 

ポッポちゃんが出なれければ…

 

ガチャを引く大義名分は消えない!!

 

 

…すいません、熱くなりすぎました。

 

熱くなった結果

なんと我が家にアンパンマンブロックの再ブーム来たる。

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並べる。

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行列を作る。

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縦に長く作る。(この辺で、今までの水平方面縛りが外れて家族の創作意欲が爆発)

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ドキンちゃん城。

 

と、今まで作っていたものと大分違ったものを作るようになりました♪

 

親である僕もガツガツ作り、そこに子どもが「全部縦につなげてみる」「壁を作ってみる」など違ったものを作り、「YES,and...」と更にそこに創作物を乗っけてみて、あまったブロックで妻が更に新しい形の車を作り出し…と、家族総出で熱くなる。

 

熱くなると面白いものができるから楽しい。

 

集中して楽しむから、疲れてくる。

 

疲れてきたら、「あーあー!!(俺がぶっ壊す!!)」と息子が最後は木っ端微塵に粉砕。

 

ねーちゃんが泣いてゲームセット。

 

壊れて泣くところまでがセットのブロック遊びです。

 

 

おまけ

最近、ドキンちゃんに娘が新たな名前をつけました。

 

その名も…

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エルサ。

 

・・・。

 

・・・。

 

これがエルサに見立てられるなら、あと3年は持ちそうだ。

 

 

2018年版「男(父親)に出来ることって何だろう」

◆父力アップ講座の企画会議をしてきました。

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なぜか靴を脱ぐ人々…

 

この企画の目的は当初、

 

「お母さんの一人時間と、父と子供の時間を定期的に作れるようにする」

ということだった。

 

しかし、企画会議の中で実際友人から話を聴いてみると、「一人時間は勿論喉から手が出るほど欲しいけど、それは一番ではない。」という言葉がでてきた。

 

一番は「夫婦で話す時間が欲しい」だという。

 

子育て中は、保育園の入園や子供の発達具合、日々の行動など「自分以外の視点」を持つパートナーの意見が欲しいと常々思う。

 

それは、自分の行動の責任は自分でとれるが、子供への行動の決定の責任は自分では負えないという点によるものだ。

 

自分自身のことではないからこそ迷う。

 

そして、客観性を保つためにも別の人間の視点が欲しいし、共にこの一人では負えない決定の責任を共に持ってくれる人を求める。

 

しかし、現実には仕事に追われ、子供の細かな様子を見る時間もない。

 

自分以外の子供と一緒に遊んでいる場面を見て比較する経験もわずかで、手持ちの情報が少ないからこそ「知っているお母さんで決めてほしい」と思ったり、「また今度ね」と安易に先延ばししてしまうお父さんもいる。

 

だいたいにして「保育園どうする?」なんて重い話をするためには、軽め雑談を交わして、場がHOTにならないとできないのだが、HOTになる時間が持てない、、、というのが現実としてある。

 

そういうわけで「夫婦で話す時間」こそがほしいというわけだ。

 

 

ここに大事なポイントがあると思う。 

 

◆現代の多くの父親は頑張っている。

これは間違いない。

 

家事に育児にと参加しなくちゃいけないともわかっている。

 

しかし… 

 

⑴意識がない。やる気もない。だから情報もない。

⑵意識はあって、やる気もある。でも情報がないから何をしていいのかわからない。

⑶意識はあって、やる気もあって、情報もある。だけどうまくいかない。

⑷意識もやる気も情報もある。そしてうまく行っている。

 

父親の状態をざっくり段階分けして以下の4つに分けると… 

多くのメインで仕事を受け持つ父親は⑵と⑶の段階にある。

 

問題なのは、実際に参加していて、行動はしているが⑷に至らない、

 

「ズレちゃっている。」

 

ということなのだ。

 

 

例えば、こんなケース。

 

ある日曜日。

妻に一人時間を作ってやろうと、子供と外に遊びに行く。

 

雨の日に、カッパも着ずに。

 

すぐに帰ってくるだろうと思ったら、かれこれ一時間は帰ってこない。

もうお母さんは気が気じゃない。「風邪を引いたらどうするんだ」とか「何かあったんじゃないか」とか、心は思いで子供と旦那でいっぱいになり、もはや一人でいても一人時間などでは全然なくなっている。

 

そして、満面の笑みで帰ってくる子供と旦那に、ぶちギレる。

 

そこで面食らうのは旦那。妻を一人にして気を休ませようとしたのに、何故かブッチギレ状態になっている。雨の中頑張ったのに。

 

まぁ旦那の立場からしたら、もう意味わかんない。お手上げ状態。

 

 

このケースは⑵と⑶が混じっている。

 

⑵とも言える。妻が何を求めていて、子育てにおいて何を大事にしているのか、家庭生活を主で回す立場にある人にとって何が大事かという「情報」を知らないのだから。

 

⑶だとも言える。「父親は母親にできない体験を子供にさせてやってほしい」という意見があることを知っている。だから、雨を楽しむ体験をさせた。けど、うまくいかなかった。

 

それは目の前にいる妻の思い、そして妻と子供の日常の動きとズレていたからだ。

 

父親と母親の動きがつながっていないのだ。

 

この非連動性が「ズレている」というお互いの感覚であり、この「ズレ」を修正したくて「夫婦で話す時間が欲しい」と妻に思わせるのではないだろうか。

 

◆現代の父親には家庭生活における「柔軟さ」への認識が必要だ。

 実際に自分がメイン仕事&サブ家庭生活も、メイン家庭生活&サブ仕事の立場もしてみてた経験から書いたのが、以下の図である。

 

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さきほどの雨の日ずぶ濡れ事件を例にとろう。

 

家庭生活を軸になって回している身からすれば、子供の健康は第一である。体調を崩した時の対応がどれほど大変か、ずっと不機嫌な子供をケアし続けることがどれほど大変か。

 

はっきりいって絶対に避けたい。

 

基本的な軸をぶらすような行為はご免こうむりたいのだ。

 

例を変えると、子供の食べ過ぎを気にしている奥さんがいるとする。

お菓子となると、余計に止まらない。平日常に食事に細心の注意を払っている。

 

そこに「俺がしんべえと遊びに行くよ!」と旦那さんが言う。

息子さんはよく食べる。そして食べている時、心底満足そうな顔をする。

 

 だから、ビスコを食べさせ、バナナを食べさせ、みかんを食べさせ、唐揚げを食べさせ帰ってきてしまう。

 

するとどうなるだろうか?

 

一時の楽しさの、幸せな顔をみたいが為に自分が必死になって大切にしようとしているリズムをぶち壊しにされた奥さんは、

 

不快感を露わにして、夫を憎む。ひたすらに憎む。

 

 

昨年にこんな記事を書いた。

今もこうした「女性や子ども達を『理想の母親像』や『理想の子ども像』なんてものから

引き剥がし、その人というかけがえのない存在に戻してあげる瞬間を作ること」が

 

大事だと感じている。けれども、補足する部分を2018年、主夫を経験して見つけた。

 

現代の父親は「自分なりの家庭での役割や関わり方を自分で自由に作っていきやすい。」と書いていたが、「自由」ではないのだということ。

 

つまり、家庭における役割は、ベースを作っている人が「何を大切にして」「どんな子育てをしているのか」「どんな家庭を作ろうとしているのか」等といったことを知った上で、形作るのだということ。

 

家庭家庭で千差万別である家族の形。

 

それは自分の関わりによって、連動性・統一性のあるものにしていくもなのだという認識を父親が持つ。

 

そうすることで、夫婦のコミュニケーションは自ずと増え、ズレは減る。

 

そうして「理想の母親」だとか「理想の子ども」だとかではなく、その人らしく家族の中で振る舞えるようになるのではないかと、今思うのだ。

 

 

◆来年、父力講座をします!

こうした分析を行っても、実際に伝えたり、行動に移したりしなければ何も変わらない。いきなりベストは難しくとも、とりあえずやってみなければ。

 

ということで、こうした父親の認識、感覚、役割を子どもとの遊びを通じて養ってもらう父力講座(仮)を年明けに構築して試行、来年度には開催していきます。

 

 

また、合わせてファミリー支援イベントや、個人&パートナーセッションの出店も行っていきますので、どうかよろしくお願いします。

 

12月16日は鳥取出店!こちらのイベントに参加させて頂きます♪

Happy Holiday〜クリスマス編 chouchou in鳥取大丸 vol.3