ポストシュフ宣言【後編】
人間は二人で一つになんてなれない。
えええええええ!いきなり前言撤回!?
この数週間何があった?!
とご心配の方、ありがとうございます。
夫婦共々多忙の極みでしたが、大丈夫です。
冒頭の一文は、正統な前編からの続きです。
前提の確認。僕らは個人である。
さて、前回
「僕は主夫(シュフ)ではなく、
夫婦二人で一つのキャリアを作る片割れのフ(夫)だ。」
という結論をまず出しました。
けど、誤解のないようにきちんと伝えておきたいのが冒頭の一文なんです。
これは、あの心に残る名ドラマ『コウノドリ season2』が出典。
(多分、このコウノドリというドラマ、特にseson2第3話は父親になる人全員が観たほうがいい。産婦人科でプレパパさんに「待っている間、ご覧ください〜♪」って強制視聴させるのが良いと思っている。)
産後うつ状態に陥り、自殺をはかりかけた妻(メアリージュン)は担当産科医(星野源)がかけつけたことで保護される。そこに連絡を受けた夫(ナオトインティライミ)がかけつけたというシチュエーションでこの言葉が登場します。
「大丈夫か…どうしてこんなことを…。言ってくれよ。
夫婦は二人で一つってお義母さんも言ってたじゃない…。」(夫)
「なんだそれ…。
人間は二人で一つになんてなれない。死ぬまで一人だよ。
たとえ夫婦でも、別々の人間だからこそお互いを尊重し合う。
それで初めて、助け合えるんだろ。」(医)
なんたる箴言。
二人の人間が以心伝心になることはない。
わかりあえない。人間はずっと一人である。
これがまず前提としてあるということ。これを強調しておきたい。
俺は妻を心の底から理解しているぜ!理解されているぜ!
妻がいないと生きていけないんだぜ!
なんてことは言わない。
それは嘘だ。
当然、妻がいなくなったら打ちひしがれるし、心に巨大な空白ができるだろうと思う。
生活もとんでもなく大変になる。
けど、そうなったらそうなったで、間違いなく僕は生きていくだろう。
しんどいながらも働き口を探して新しい生活を作っていく。
子供だって誰かを頼りながら育てる。
そもそも、いつ何時どんなアクシデントがあって片割れがいなくなるかもわからないのだから。
僕らは夫婦でいなくたって生きてはいける。
僕も妻も、主人でありシュフだから。
こうした個人としての存在の空気圧を互いに元々もっているからこそ、決して完全には理解しあえないし、溶け合えない。ぶつかり合う。
けど、きっと理解できなくて、理解してもらえなくて、無駄が多くてめんどくさいほうがどこかで豊かだと思っているから夫婦であり、家庭をもっているんだ。
僕の人生は僕に責任がある。
妻の人生の責任は妻にある。
けど、ぼくらは夫婦でいる。
主体的に家庭を作っている。
自分の人生の追求の先にある、パートナーの人生。
僕ら夫婦は「愛」という言葉が苦手である。
「愛」という言葉が持つ「自分よりも相手のことを大切に思う」という自己犠牲につながる部分に欺瞞を感じるからだ。
僕らは自分を犠牲にはできない。
僕らが一緒に生きているのは、どこまでも自分の実人生を良くしていこうという営みの結果だ。
貪欲に、自分の人生を豊かにしようと願っているから、パートナーと一緒に生活しようとする。
自分とは別の意志を持って活動する理解できない他者の要素を、深く自分の中に取り入れようとするから、家庭を持とうとする。
先立つのはいつだって自分。それは揺るがない真実だと僕は思う。
しかし、パートナーも同様なのだ。
自分の人生を豊かにしようと願い、自分の権利を家庭の中で全力でぶつけてくる。
これはもう完全に家庭のタイマンなのである。
(=マンツーマンが語源か。不良用語で一対一の喧嘩のこと。「タイマンはったらダチ!」とは何か(「バチバチBURST」最新話より) - 情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明)
毎日毎日、
恐ろしいぐらいに衝突し、傷つけあい、時に不機嫌を撒き散らしあい、がっかりしあいながらも、面倒臭いくささからなんとか逃げずに向き合っていく。
そうしたうちに、ベッドに仰向けに倒れこみ
「ハァハァ、お前…なかなかやるな(めんどくせえな)!」
「お前こそ…(めんどくせぇな)!」
と、なんだかお互いの面倒臭さをリスペクトし合う。
そして、相手も四六時中面倒臭い思考回路を持ちながらなんとか生きている自分と同じような人間がいるとようやく認識できるようになり、
自分でも「めんどくせえええええええ!!!」と辟易するほどの自分自身と、正面から向き合ってくれた上に、まがりなりにも意見を言って生活してくれる相手に
ウルトラリスペクトが生まれる。
分かりあえない所だらけでも、相手の人生も大事にしたいと願うようになる。
家庭の中で権利を主張しあい、尊重し合う夫婦へ。
僕たち夫婦は一つのライフキャリアを形成して、割り切ることはできない。
それは、生活と人生を共有して有機的につながっているからで、個人としての存在を放り投げたのではない。
お互いの人生を追求する僕らは、家庭内においても互いに権利を主張し合う。
その結果として、自分のパーセンテージを「仕事90%」にしたり、「家事育児90%」にすることができる。「学び60%」にもできる。それはその残りの割合を主体的に受け持ってくれるパートナーがいるから。自分のメリットにもなると受け取ってくれる人がいるから。
互いを尊重し合い、折り合うことで
二人で一つの可変的な家庭・形・キャリアをデザインすることができる。
お互いの「主体性」をぶつけあって一つの形を作るから、どちらかが何かの分野において「主・従」であるという概念はなくなる。
それを便宜上決める必要がある時は当然ある。それはそれでいい。
けど、本質的に夫婦の間に、「家庭」のあらゆる構築要素の中に主従はない。
僕らは夫婦は、どちらの「フ」も家庭の全てに権利を有している。そして、お互いが権利を行使し合う中で、家庭は正常にまわっていく。
その結果、二人の生活・人生は豊かになっていく。
こうした認識の上に立って、一つの形・家庭・キャリアを共に作ろうとする市民のような家庭の担い手が「フ(夫・婦)」であり、ポストシュフ的存在だと僕は考える。
最後に。
家庭の中に「権利」や「市民」といった考え方を持ち込むことは、軋轢を生みやすくし、適切てはないと感じる人もいるかもしれません。
けど、こうした見方で夫婦や家庭の違った姿が見えてくるような気がしています。
ぜひ、また読んで思ったことをお伝えください。
次回は「家事権」というものについて考えていこうと思います。
ポストシュフ宣言 【前編】
僕は主夫(シュフ)じゃなかった。
「と、突然どうした。」
「お前主夫だったろ。職業調査欄、主婦(主夫)に◯つけてただろ。」
と、戸惑われますよね。
ええ、3年前は高校教諭でしたが退職、2年前はバトンタッチ期間で私立高校の非常勤講師、昨年度からは無職であり、家事育児を担う専業主夫です。
2020年度からは長男も年少になるため、兼業主夫になる予定でした。
この2年間、あらゆる所で公言してきました。
「北原泰幸です。妻が働いていて、僕は主夫で2児の子育てをしています。」
皆が言ってくれました。
「すごい!素敵なお父さんね〜。」
「理解のある旦那さんね〜。なかなか出来ることじゃないわ!」
「料理もしてるの?すごい!うちの旦那なんて…。」
いついかなる時でもお母様方からもてはやされました。
「それほどでもあるよ!」とまんざらでもない思いを抱きながら、
「世の女性は同じことをしているのに、性別が違うだけで不思議だな。」
と、少しの違和感を持っていました。
妻は職場や知人に「旦那さんは何してるの?」と訊かれると皆に言われたそうです。
「大変やなぁ…。で、いつから旦那は働くんや?」
「旦那を養うのも大変やろう。で、いつ(略)」
いついかなる時も男性陣から旦那の心配をされたそうです。
その時妻はいつも、「養っているつもりなんてないのに。」
と変な気がしたそうです。
果たして僕は一体何なんだろう。
自分を「主夫」と規定するのは、何か違う気がする。
特に2019年度、引っかかってきました。
そして出た結論が冒頭です。
やっぱり僕は主夫(シュフ)じゃなかったです。
違和感の正体を探ってみた。
そもそも「主婦」とは何か。辞書で引いてみた
その一家の中で、家族の世話をし、家事を取り仕切る立場にあるとされる女性。
『新明解国語辞典 第七版』
ということは、「主夫」は「女性」を「男性」に置き換えればいいのか。
では、「主婦」と対になることは何か。
「主人」である。
一家の長として家族を扶養する立場にあるとされる人。(一般に男性を指す。)
『新明解国語辞典 第七版』
ふむふむ、やはり構図としては「男は外で稼ぎ、女は家を守る」という伝統的なスタイルですな。僕は制度上は確かに扶養に入っていて、ここ2年稼ぎはほぼ100%妻だから、確かに主夫か。
が、腑に落ちないのである。何でだろう。
「主婦」「主人」、共通しているのは「主」である。
「メイン、仕切る、長、リーダー、統率」そういう意味合いをこの「主」という言葉は持つ。暴走族的な用語でいうと、「頭(ヘッド)」である。
・・・。
ここだ!!
第一に、
確かに今、家事育児を中心的に担っているのは僕だし、労働をして賃金を得ているのは妻だ。
でも、僕らは「二人で稼いでいる」「二人で家事育児をしている」という認識で、どちらかが役割上「主・長・頭(ヘッド)」という概念を持っていない。
だって、僕らは家族としてお金を使い、お金を得て、生活を回しているからだ。二人を分離して考えることはできない。二人の中で状況に応じて負担具合が常に変化しているからだ。
第二には、実際、「主夫」を名乗るには僕はおこがましいと思うぐらいにしか家事ができていないということ。
そもそも平日日中ほぼ家にいない。
朝8時30分には子どもたちを車に乗せて、45分かけて森のようちえんまで上の娘を送り、その後息子と共に15時頃まで色んな所に行き、また娘を迎えて16時頃に帰宅する。そこから夕飯やら何やらして…洗濯は出来たらして…、妻が帰ってきたら家事捗るー!というイメージ。
妻との家事割合は体感でアベレージ50%ぐらいじゃないかと思っている。
俺、全然「主」じゃない!
育児はめちゃくちゃしているが、それだって妻が常にしてくれている。多分妻が性別男性だったら、「スーパーサラリーマン」、「理想の男性」だと思う。ウルトラリスペクト。
じゃあ、結局「主夫」じゃなくてなんなのよ。
そのまんまですよ。
フです。
僕は「夫(フ)」です。
・・・・・
・・・・・
何言ってんだこいつと思った方、
非常に正しい。
でもね、そう表現するしかないんですよ。
僕のライフキャリアも、家庭の中での妻と夫婦となって家庭を作り始めた時から、もう単独では語れなくなっていた。
家事も育児も労働も余暇も学習も、僕らは共有して生きるようになったから。
「それは僕らおしどり夫婦なの♪」
「いつでも一緒なの♪仲いいでしょ♪」
なんてことが言いたいのではなくて。
どちらが「主」であるなどと役割で綺麗に割ることができない。ここからここまでが夫である僕の分担で、ここまでが妻の分担という説明が他人にできない。だって、それは状況によっていつも変わっていくから。
「夕食もお父さんがいつも作っているんですか?」という問いにも、妻抜きに答えることができない。休日妻が作ることが多いし、平日でも妻が早く帰った日でも僕が子供にかかりきりの日は作ってくれるからだ。
「はい!いつも僕が夕食を作っています!」
と僕が答えることはできる。それは簡単だが、嘘だ。
これは絶対についてはいけない嘘だと、どこかで僕の心が言うのだ。
「フ」という音だけでは、存在、意味が特定できない。説明できない。
「夫婦」と二者が揃うことで、初めて「フーフ」と音だけで意味が認識できるようになる。
僕自身もそうだ。僕のキャリアは、片割れのフ(婦)である妻が揃うことで、初めて意味を持つ。
だから、僕は「フ(夫)」でいいのだ。僕らは二人で一つの形を作っているんだから。
おいおい、そんな依存状態で男として、いや、人としてどうなんよ…大丈夫なん?と思った方。
非常に正しい。
けど、大丈夫なんです。
続きは次回書く後編で。
弓矢と狩猟社会とLDの関係。
いやね、今日弓矢を作ったんですよ、家で。
弓と矢。
何が弓と矢だ!
これは単なる、
ホームセンター産の丸棒と
ビーズ用のゴム糸と
ベビーチェアの一番最初にいらなくなるアレの合成物だろうが!!!!!
これが弓矢とは片腹痛いわ!!!
すいませんみなさん。申し訳ない家族。
とんでもないバッタもんを作り出してしまいました。
でも、仕方なかったんです。ベビーチェアのアレを本体から外した時からね、アイツが僕に言うんですよ。
「オレを使ええぇぇ。」
って。
「ほら、オレの形、なんかそそるだろ?なんかに似てるだろ?」
「ほれ、さぁ作れよ。さぁ。」
「カッコイイのできるぞ?きっと子ども達おおはしゃぎだぜ?」
ってね。
それでね、できたのがコレですよ。
何この持ち方とフローリング。
かっこよく見せようと思って撮ろうとした様が見え見え。
これ見よがしのツーフィンガーと手首の角度がもうね。
そんなポーズ付けてる暇があったらゴム糸の端処理しろと。
へへ、でもこんなね、何のしなりもない弓と、工夫といったら弦が引っかかりやすくなるように入れた切れ目ぐらいの矢でもね、子どもは興味津々で近づいてくるんですよ。
ネーミングの勝利ですよ。
言ったもん勝ち。
おつな響きだよね。「ゆみや」。
さぁ、この弓矢を娘が手に取ったはいいが、困った事態が発生したんですよ。
弓に矢を番える。まずこれが難しい。
(そもそも単なる丸棒だし。)
そして、矢を番えながら弓を左手で支えて目標に向けないといけない。
(ベビーチェアのアレ、以外に分厚く重量あるし。)
そこから矢を引く。が、張りが弱い。まるで手応えがない。
(ゴム糸…飛ぶと思ったんだけどなぁ。)
父は焦る。
「あ、弓矢って実は複数の精密な動きを要求するタイプの道具だったのか…。」
漸く気づく。
これは発達段階に合ってない道具だと。
(そして、道具の作りが悪すぎて大人並みの器用さで操作をカバーしないと、)
まともに矢が飛ばない。
それでもなんとかして矢を飛ばそうと食らいつく娘!
やだ…この子なんて健気…。
自分なりの番え方で矢をセットしようと必死。
父も「左手で弓をもって、右手で矢をトレンティ持ちして…」と必死。
娘は父のアドバイスを完全無視して試行錯誤。
やめときゃいいのに、作りたてホヤホヤへの自作弓矢への愛情か自負心からか、
「みーちゃん!まずはやり方を教えてくれてる時はそれ通りやってみなさい!!!」と自分流の構え方を強要。
案の定動作が複雑すぎて、
「できないいいいいいいいいい」
と限界水域突入。
夕飯の準備をしていた妻は当然のごとくご立腹。
「そんなものもうどうでもいいからどっかやってよ。」
指先に表われた愛情と自負心が砕け散る。
弓矢の話と発達(学習)障害
ま、まぁアホな弓矢を自作したアホな日常のお話でしたが、実はこの出来事、僕の中ではここ二週間発達障害、なかでも学習障害に重点を置いた支援者研修を受けていたので、そことちょっと繋がって見えたのです。
発達障害と言われる特性のある方は、得手不得手が非常にはっきり分かれ、興味・こだわりにも偏りがあるケースが多いです。
その非常に苦手な部分(例えば書き)でかつ、手先の発達もあまり進んでいないような状態で小学校1〜6年ひたすら漢字の書き取りやらたくさんの科目の教科学習カリキュラムをこなさなきゃならないのって、恐らく相当しんどい。擬似体験を通じて実感しました。
ちょっとこの弓矢のケースに置き換えて考えてみると、
うちの娘みたいに興味があれば「やってみたい!」って多少無理でもやろうとするだろうけど、
それでもやっているうちに「これうまくできない」って思ったら、多分この弓矢に触ろうとはしなくなると思うんですよね。
なのに、そこに「いやいや、だから弓矢の持ち方はそうじゃないんだよ!左手で弓を持って!」なんて毎日毎日この弓矢持たされて、
「宿題だよ。」と家での自主トレ1時間させられて(それは自主トレとは言わぬ。)
…まぁ嫌いになりますよね。
そもそも弓矢に興味すら持ってなかった人からすれば、
「弓矢使えないと社会に出て困るから!」なんて言われても、
「矢の種類とか弓の構造とか弓の歴史とか、そんなもの覚える意味ねぇし!」
「大体、そんな狩猟社会でたくねぇよ!」
って叫びたくなるよね…。
発達段階と興味関心、そして経験は学習において非常に重要。
こういう特性の子たちって、小6まで興味のあることを中心にトコトン突き詰めて遊んでいたら、発達段階も興味関心も経験も、6年間を弓矢の苦行に費やすよりはずっと育って、「弓矢できるようになったら、めっちゃ世界広がるな!」って思えるになって、案外すんなり短期間で学習が進む気がしてしまう…。当然、そんな単純な話でもないのだけど。
制度の中で、生徒・保護者・教師・支援者皆さん懸命に活動されている。だけど、それが結果的にめちゃくちゃ勿体ない時間の使い方になってしまっている気がして、辛い。
高校で教師をしていた時、今思えば学習障害の範疇に入っていたのかもしれないなと思い当たる子はいて、でも当時はその子の「高校での国語学習の現状」しか僕には見えていなかった。
でも、小学校からずーーーーーっと続いてきた学習活動の延長線上に高校の教科学習はある。そう考えた時に想像される、彼らの抱えていたしんどさ、重さ…全然わかっていなかったなぁ。
今日はこの学習障害児支援員養成研修最終日。
自分に何ができるのか、どんな選択肢が作れるのか、行動がとれるのか考えてこようと思います。
もちろん弓矢と狩猟社会に話を読み替えてね!
これからはもっと育児経験が活きる社会になっていく。
入門・初級コースの講座を受けてきました。
密度の濃い、素晴らしい研修でした。
内容に関しては専門的で、それを噛み砕いてここに書くことはまだ自分にはできないのでやめておきます。
今日書くのは、この講座を受けての感想と、僕が直感的に思ったこと。
支援員に求められていること=必要な関わり方って…
これ「育児」だ!!
いや、「児」を「育む」から「育児」というわけで、支援対象は「児」なわけで、当たり前なんですけど…
その当たり前が目から鱗。
だって、だって、、、
講座で話聞いている時
「あれ、俺今日子育て講座受講してたっけ…?」
って10回ぐらい思った!
そして、育児で学ぶ我が子との関わり方のマインドって、
人と支援的に接する時の「ユニバーサルデザイン」というか、基礎的な環境整備って感覚なんだなと腑に落ちた。
誰にとってもつまづきや段差を作らないコミュニケーションスキル。相手を受け入れる作法、それが親業や様々な育児講座で受ける基本の関わり方なのかな。
でも、でもね、、、我が子と一緒に暮らしているとね、、、
あるじゃないですか、、
「さっきカニ公園行きたいって言ってたよね。おねえちゃんの幼稚園のお迎え前にカニ公園行こっか。」
「カニこうえん、いや。」
「え。じゃあプレーパーク行こっか。」
「プレーパークいや。」
「ああ、このままドライブしよっか。」
「いやぁぁあ。ロケットこうえんがいいのぉ…」
「え、でももうお迎え時間近いし、ロケット公園行ってたらおむかえ間に合わないんだよ…」
「いやだぁああああああああああああ。」
「ごめんね、ロケット公園行きたいんだよね。お迎えで行けないの残念だよね。お迎え行った後ロケット公園行こうね。」
「いやああああだぁああ!!!」
「ロケット公園今すぐ行けないのがいやなの?」
「わかんないいいいいいいいい」
そしておもらし。
どないせぇっちゅうねん!!!
みたいなこと。
(「まぁ、しゃーないやん?俺2歳やし。」)
どんなに頑張っても無理!!
ってことあるじゃないですか。
「俺今日多分10回以上超共感的神対応したと思うんだよね!
サッカーで言えばPK10本連続セーブするぐらいのファインプレーしたと思んだよね!
もし育児選手権大会のフリー演技部門に出場してたら自己新記録更新して、観客から拍手喝采モノだと思うんだよね!!
でも俺全く誰からも褒められてないし、気持ち受け止められてないよね!
ねぇ、
もうブチ切れていいよね?」
みたいなこと、あるじゃないですか。
生活を共にするって、時間的に切れ目がなさすぎる。
利害関係がありすぎる。買い物行かなきゃご飯作れないのに、買い物行きたくないって駄々こねられてもどうにもならんとこある。
お互い共に過ごす経験を積みすぎて、相手の行動・言動にうんざりしちゃうことだって親子双方にある。
いくら子どもとの関わり方を学んでも、
お友達のママさんの方がうちの子との関わりうまいんだけどねぇなんで!?
とかあるじゃないですか。相性だけじゃ説明つかねぇ。
我が子なだけに、学んだ関わり方がどうもうまく使えない。自信喪失。なんか俺今日もキレてばっかりだ…。みたいな。
書いてて泣きそう。
(「まぁ落ち着いて。見方を変えてみるんやろ。そゆとき。」)
でも…あれ、裏を返すと。
そういえば、自分の子にはうまく関われてないけど、他の家の子にはやけに共感的に、すっごく上手くいく関わりができたなってことが結構あった気がする。
「それじゃ意味ないじゃん!」
って一人突っ込みしてたけど、、これって我が子相手にはうまく機能していないだけで、スキルやマインドとしてはある程度身についていて、よそ様の子にはいい影響を与えうるってことかな。
家族だと近すぎるけど、ナナメの関係として別の子と関わるとうまくいく場合も多いってことかな。
そして、それ以上にこの育児で培われるマインドやスキルが人と支援的に関わる上でのユニバーサルなものだとすれば、、、
かつ、我が子の個性に合わせて対応をデザインすること(大抵うまくいかなかったりするけど)が、合理的配慮の感覚に近いとすれば、、、
発達障害の増加傾向や、ダイバーシティが重要度を増す社会のことを考えると、
その育児経験で得たスキルってこれからの社会でまさに求められているものだったりするんじゃない?
だって、支援的コミュニケーションをとる相手は我が子じゃない、他人なんだから。ずっと冷静に話ができるよ。
子育てを学びながら、悪戦苦闘しながらやっていったら、そのスキル・マインドを使って我が子以外の「自分のことを理解してくれるおじさん」「メンター」になるかもしれない。
会社の中で、若い社員の悩みに寄り添う先輩社員になるかもしれない。上司になるかもしれない。
そして、我が子がいつか自分以外の、学校以外での「信頼できる大人」に家庭や学校ではできない相談をするかもしれない。
え。
それってすごく良い。
(「せやろ、俺との時間、大分活きてくるやろ。」)
育児に注力したお母さんの期間は、立派なキャリア。
仕事の時間を削って子どもとの関わり方を学ぶお父さんの時間も、立派なキャリア。
なかなか報われない気になることもある日々の子育て学びは、これからの社会支える上で、とっても大事な素養になる。
そんな風に思えて、今自分が過ごしている時間が「自分の家庭」の中で完結しない、社会とつながっていくことに感じることができて、とても嬉しくなりました。
なかなか思ったように関わってやれないけど、育児頑張ろう。
そして、来週も研修頑張ろう!
2020年度に向けて。週1預けスタート。
今週のお題「2020年の抱負」
「もう半歩前へ。」
これにしました。
『中途半端だな…百歩って言えよ愚図!だからお前は愚図!』
とか、
『そんなんじゃ半歩進んで二歩下がり、一歩半後退じゃ!これでいいのだ〜とか言っとけお前は!』
なんて、
思ったあなた。
シャラップでございます。
というか、完全に被害妄想、言ってたのは僕の自意識ですね。
シャラップ、自意識。
この「半歩」というのは、頭を洗うときの娘への声がけから自分への抱負に転じた言葉です。
僕は顔が水に濡れるのが嫌いです。ちっちゃい頃から朝顔を洗うときにはタオル使って拭いてます。娘も息子も、どうやら同じ。顔が濡れるのを強く嫌います。
シャンプーをシャワーで洗い落とす時、娘は深く踏み込むのをためらってしまい、以前は中々シャワーが終わりませんでした。
けれど、その時に言いました。
「みーちゃん、もう半歩だけ足を前に出してみて。」
娘はわずかに前に進みます。
「もう半歩だけ前に。」
もうわずかに進みます。
すると、いつもよりずっと早くに洗い終わりました。
シャワーを前にすると、水が目に入るからやりたくない。
だから少しずつ後退していく。
一歩や二歩も前にグッと踏み込めるほど僕も娘も大胆ではない。
でも、
「下がらずに、半歩ずつでもジリジリ進めば、大事な所まで辿り着く。」
割と臆病ですぐに引いてしまいがちな傾向のある自分としては、「下がらず踏み込む意識」として「もう半歩先へ。」が必要だなと思ったのです。
わかったな、自意識よ。
(あ、ちなみに息子はシャワー大嫌いです。が、桶使用かつ覚悟完了の合図後なら頭にお湯を10回ほどぶっかけられても耐えられる。絶対シャワーのが楽。極めて謎。)
さて、2020年がスタートして、年度が変わるまであと3ヶ月。4月に向けて動いていく時期ですね。
4月からは息子も年少!
割と繊細で気難しい所があるけど、肚を括ると強い、そんなボーイなもので、しっかり覚悟完了をさせたい。彼にとって最も大事なこと、それは…
事前の根回し。
どこぞの会社役員かお前は…。
(パンパンです。)
ということで、本日から週1回4時間、僕から離れて預かり保育を利用させてもらい、その間僕は4月からの仕事の準備をしていくことに。
ということで、意図をしっかり伝えて預け先へ。そして一人になった後は瀬戸内市民図書館もみわ広場へ。
この図書館は飲食OK・キッズスペース有・出来立てピカピカ・蔵書最新・電源&wifi完備・ついでにスタディルーム(自習室)まである。控えめに言って最高の施設であります。
さぁ、パソコンを開いて…
おお?
おおお?
なんだこの捗りは!
なんなんだ!?ただ仕事に集中できているだけなのに…
浄化されているじゃないか俺は!
預かってくださった方、本当にありがとうございます。
神様仏様◯◯様です。
いやぁ、ただただ仕事できるって、本当に素晴らしい。
もう来週木曜が待ち遠しい!
っていうか待てない!
…あっという間に預けジャンキーが出来上がりました。
いやほんと、癖になりますねこれ。
慎まねばならん。慎まねばならん。
謹賀新年2020。
12月31日から1月3日まで、あなたはどんな風にお過ごしでしたか…。
働き方改革が叫ばれる昨今、、、
街の小売店、飲食店、お休みされるところが増えましたね。
本当に良かった。皆さんゆっくりされましたかね。
僕もついにやりましたよ、今年は。
寝正月!
『あ?なんだこの野郎、主夫の癖に実家に戻って悠々過ごしてんのか?』
とお思いの方、、、お待ちになってください。
私ね、ただいま日本国語大辞典でお調べ申しました。
ね‐しょうがつ ‥シャウグヮツ【寝正月】
〘名〙 正月にどこへも出かけないで、家でゆっくり寝て過ごすこと。また、病気で新年早々床についていること。《季・新年》
※俳諧・文化句帖‐二年(1805)正月「霞む日も寝正月かよ山の家」
もう一度見てみましょう。意味、二つありましたね。
正月にどこへも出かけないで、家でゆっくり寝て過ごすこと。
また、
病気で新年早々床についていること。
さぁ、前者と後者どちらの寝正月だったか…
もうお分かりですよね^^
ちなみに迷っている人には大ヒント。
年始の当直のクリニックで頂いた、かのお薬、服用した息子は布団の中を覗き込み、かようなことを申しておりました。
「おもち、、おもちがかくれてるよ…」
インフルエンザ怖い!
倒れた二児にひたすら添い寝。そんな寝正月。
皆様、明後日月曜日に向けて、元気を蓄えましょうね♪
2019年すっかりさぼりました、すいません。2020年、当ブログをまた宜しくお願いします。
近況。
気がついたら2ヶ月が過ぎ。
気がつけば娘は週5でようちえん。
そして満を持して迎える息子の・・・
「姉ロス」
いつでもーさーがしているよー
どっかにー姉の姿を、、、、
きさまぁ・・・
父じゃ不服かッッ!!
色々溜まったことを書きたいのですが、とりあえず弁当箱洗ってきます!